2014年に公開された映画『るろうに剣心 京都大火編』。
和月伸宏の漫画『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』を実写映画化したシリーズ第2作。
原作でも特に人気の高い志々雄真実編を、前後編の二部作として実写化した前編にあたり、物語は後編『るろうに剣心 伝説の最期編』へ続く。
わかっちゃいるけど、やっぱりしんどかった。
本記事ではネタバレ全開で感想考察していきます。
基本情報
作品名:るろうに剣心 京都大火編
原題:Rurouni Kenshin: Kyoto Inferno
公開年:2014年
製作国:日本
上映時間:139分
監督:大友啓史
脚本:藤井清美、大友啓史
原作:和月伸宏『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』
出演:佐藤健、武井咲、伊勢谷友介、青木崇高、蒼井優、神木隆之介、土屋太鳳、田中泯、宮沢和史、小澤征悦、滝藤賢一、三浦涼介、丸山智己、高橋メアリージュン、福山雅治、江口洋介、藤原竜也
ジャンル:時代劇/アクション/ドラマ
あらすじ

明治維新から10年。緋村剣心は神谷薫たちと穏やかな日々を送っていたが、明治政府の要人・大久保利通から、かつて剣心の後継として暗躍していた人斬り・志々雄真実の存在を知らされる。
政府に裏切られ全身を焼かれながらも生き延びた志々雄は、京都を拠点に兵を集め、明治政府への復讐と新たな時代の支配を企てていた。大久保の死をきっかけに、剣心は再び自らの過去と向き合い、志々雄を止めるため京都へ向かう。
前作のレビューはこちらから↓
ダルイ。
自分にとって『るろうに剣心』のピークは、やっぱり志々雄真実編だ。だから実写シリーズを見るうえでも、一番見たいのは当然、剣心と志々雄の戦いになる。
ところが『京都大火編』は、その戦いへ向かうための積み重ねを描く前編。
もちろんこの積み重ねは必要だと思う。
ここを全部削ってしまったら、Netflix版『幽☆遊☆白書』みてぇに原作の大事な過程をごっそり飛ばして、人物関係も敵の強さも薄っぺらくなってしまう。
だから削れとは思わない。
でも、だるい。
このジレンマがずっとある。
『京都大火編』は139分あるのに、まだ志々雄真実編の前半でしかないのだ。
自分は昔から、一本の物語を前編・後編に分ける映画があまり好きではない。
テレビドラマなら「次回へ続く」で全然いいんだけど、映画は時間を作って映画館まで行って、2000円前後のお金を払って見るコンテンツだ。
そこで中途半端に終わられると、どうしてもモヤモヤする。
だったら志々雄真実編を4時間くらいの一本にして、『七人の侍』みたいに途中で休憩を入れて一気に見せてくれてもよかったんじゃないかと思う。
もちろん興行的には二本に分けた方がいいだろうし、制作上の事情もあるんだろう。
だから「絶対そうすべきだった」とまでは言わない。
ただ、自分だったら4時間でもいいから、その日のうちに志々雄真実編を最後まで見て、一本の映画としてスカッと終わりたかった。
前編だから当たり前なんだけれども、やっぱり一本の映画としての満足感は弱かった。
知ってる内容のおさらい
本作を見ながら改めて思ったのは、漫画の実写化って本当に難しいということだ。
自分の感覚では、漫画実写映画を見に行く人の中心って、やっぱり原作ファンがほとんどだと思う。
小説原作なら、原作を読まずに映画だけ見る人もかなりいる。でも漫画はキャラクターや世界観のイメージが強いから、実写化まで見ようと思う人は、もともと漫画を知っている人に寄りやすい。
つまり観る人は最初から内容を知っているのだ。
これって映画としてかなり大きなハンデだと思う。
自分は基本的に結末を知らない状態で映画を見たい派だ。何が起こるか分からないから面白い。「じゃあ観るなよ」と言われてしまうと元も子もなくなるのだが。
『るろうに剣心』の場合、原作を読んでいるから、その先に志々雄との戦いがあることも分かっているし、剣心が途中の敵を乗り越えていくことも分かっている。
だから危機が起きても、純粋に「どうなるんだ」とはなりづらい。
実際、剣心が海に入って波を受ける場面を見ても自分は物語より、「これどうやって撮ってるんだろう?」と余計なことを考えていた。
つまり完全に映画の外側を見ていて、それだけ物語へ入れていないということだ。
さらに有名俳優を使う難しさもある。
自分は原作ファンだから、斎藤一が出てきたら「斎藤一だ」と思いたい。
でも江口洋介を見ると、江口洋介じゃん。となる。
四乃森蒼紫も同じで、「蒼紫だ」と思いたいのに、伊勢谷友介じゃん。となる。
これは江口洋介や伊勢谷友介の演技が悪いという話ではない。
有名俳優であるほど本人のイメージが強いから、キャラクターではなく「有名俳優がこの役を演じている」という見方になってしまう。
福山じゃん。もう完全に福山雅治が演じてまっせ~感。コスプレお疲れ様です。といった感じだ。
原作ファンの頭の中には、すでにそのキャラクターが完成しているので、実写版は原作を再現するだけでは足りないのだ。
「知っている物語を、知っている観客にもう一度面白く見せる」というかなりハードモードなことをやらなければならない。
その意味では、藤原竜也の志々雄真実は面白かった。
志々雄は全身を包帯で巻かれていて、顔がほとんど見えないからだ。
だからこそ声だけでも存在感が出る俳優を使う必要があったんだろう。
藤原竜也は芝居も声もとにかく強い。舞台俳優のような発声で、顔を隠されてもちゃんと藤原竜也だと分かるため、キャスティングとして理にかなっていたと思う。
むしろ顔が出てしまうと、暑苦しいレベルだ。
正義と正義
このままだと側だけの部分をディスってるだけの記事になるので内容について踏み込んでいこう。
一つ面白いと思ったのが、志々雄真実にも志々雄なりの正義があるということ。
本作では当然、志々雄は敵として描かれるが、敵だから悪なのかと言われると、そんなに簡単でもないと思う。
剣心には剣心の考えがあり、志々雄には志々雄の考えがある。
それぞれ自分が正しいと思って行動している。
何が正しくて何が間違っているのかなんて、時代によっても変わるわけで。
例えば戦争中なら、敵国の兵士を多く倒した人間が英雄として扱われることもある。
現代の平時に同じ行為をすれば、当然まったく違う評価になる。
つまり「正義」なんて、時代や立場によって簡単に姿を変えるということだ。
志々雄から見れば明治政府こそ自分を裏切った側だし、向こうから見れば剣心たちこそ敵だ。
これは現代のXなんかを見ていても同じ構造で、炎上した人を叩く側も、「自分は正しいことを言っている」と思っているし、それに反論する側も、自分の方が正しいと思っている。
もちろん、だからといって志々雄の暴力や思想を肯定するという話ではない。
ただ、「相手にも相手なりの正論がある」という視点は持っておいた方がいいと思う。
全員が「そういう考え方もあるよね」と認め合えれば争いは起きない。
でもそれでは物語も生まれない。
本作も結局は、異なる正義を持った人間たちが、自分の正義をぶつけ合う話なんだと思う。
そんなことを考えながら見ていた『京都大火編』だったが、映画そのものは前編なので当然中途半端なところで終わる。
志々雄真実編の本番は、まだここからだ。
前作のレビューはこちらから↓






