2024年に公開された映画『パレード』。
藤井道人が監督・脚本を手がけ、2024年2月29日からNetflixで配信された日本映画。
死後も現世への未練から「あの世」へ進めずにいる人々を主人公に、残された家族や恋人への想い、別れ、後悔を描く話。
のっけからこの映画について批判めいたことを話すんだけど、素直に感じたことを書いていきます。
本記事ではネタバレ全開で感想考察していきます。
基本情報
作品名:パレード
原題:The Parades
公開年:2024年
製作国:日本
上映時間:132分
監督:藤井道人
脚本:藤井道人
原作:なし(オリジナル脚本)
出演:長澤まさみ、坂口健太郎、横浜流星、リリー・フランキー、寺島しのぶ、森七菜、黒島結菜、中島歩、北村有起哉、深川麻衣、田中哲司、でんでん、舘ひろし
ジャンル:ドラマ/ファンタジー
あらすじ

大災害によって息子・良と離ればなれになった美奈子は、がれきが打ち上げられた海辺で目を覚ます。しかし、自分がすでに死んでおり、現世に未練を残しているため「あの世」へ進めずにいることを知る。
美奈子は、同じようにこの世にとどまる青年・アキラ、元ヤクザの勝利、元映画プロデューサーのマイケルらと出会う。彼らは月に一度、死者たちが会いたかった人を探すために集まる「パレード」に参加していた。息子への想いを断ち切れない美奈子も彼らと行動を共にし、それぞれが現世に残した想いと向き合っていく。
死者の世界のルールが曖昧
死後の世界や、成仏できずに現世へとどまる人々を描くというテーマ自体は、決して珍しいものではない。
本作ではそこに、東日本大震災を強く想起させる大災害を重ねている。
まず印象的だったのが、津波のあとに残された大量の瓦礫やガラクタの風景。これがかなりリアルだった。
調べてみると、宮城県内のロケ地で地元の工務店や美術スタッフがクリーンセンターやリサイクル業者などから大量の廃材や古材、木材を集め、それらを組み上げて大規模なオープンセットを作ったらしい。あの画面を見ると、かなり力を入れて作ったことが分かる。
一方で、最初からずっと自分の頭に引っかかっていたのがこの世界のルール。
まず幽霊なのに寝る。
しかも飯も食うし、酒も飲む。
食事というのは、生きるためにするものでもある。腹が減るということ自体、生きている肉体があるから起こることだと思うんだけど。
この人たちは死んでいるのになぜ腹が減るのか。なぜ眠る必要があるのか。
しかも普通に物にも触れる。バイクにも乗れるし、電車にも乗って渋谷まで行く。
その一方で、生きている人間からは死者の姿が見えず、基本的には触れることもできない。
人には触れないのに物には触れる。
食料はどこから調達しているのか?バイクで事故を起こしたら、すでに死んでいる人間はどうなるのか?怪我だけするのか?
さらに「会いたい人に会うこと」が次の世界へ進むための条件のようにも見えるのに、坂口健太郎演じるアキラは父親に会っているし、ほかの死者たちも会いたかった人をすでに見ている。
じゃあ、何をもって未練がなくなったと判断されるのか?
会えばいいのか?会って自分自身が納得すればいいのか?
その辺のルールも最後までかなり曖昧だった。
いや、上げ足を取ろうとしてるわけではないんです。
単純に自分はこういうことに気がいってしまって、物語に没入できないんです。
ファンタジーをすんなり受け入れる人ならこういうのは気にならないんだろうけど、自分はそんなに無条件に人が勝手に作った世界観を受け入れることができない。
「マイケルに捧ぐ」でつながる、死者の思いを映画として残すということ
ただ世界観の細かい設定から一度離れると、この映画が何を描こうとしているのかは徐々に見えてくる。
エンドクレジットに「マイケルに捧ぐ」と出てくる。
マイケルといえば、リリー・フランキーが演じた、映画館を営みながら映画を撮っている人物だ。
自分はここを見て、藤井道人監督にとって「マイケル」と呼ばれる人物が実際にいて、その人がこのキャラクターのモデルになっているのではないかと想像した。
そしてその人物はもしかすると震災で亡くなったのではないか。
最後まで見ると、本作そのものが「マイケルという人に捧げた映画」だったのではないかと思えてくる。
作中のマイケルは映画を作っていて、色々な人間の人生に触れそれを映画として残そうとしていた。
そして最後に生き返った宇多田ヒカルみてぇな顔した高校生の女の子は、その意思を継ぐように映画監督になる。
さらにアキラはこの世界にいた人たちのことをずっと書き残していた。
おそらく宇多田ヒカルみてぇな顔した女の子は、アキラが残した記録をもとに、この「パレード」にいた人たちを映画にしたのではないか。
そう考えると本作の中で「映画を作る」という行為が一気に大きな意味を持ってくる。
死んだ人にも人生があったし、感情があった。想いがあった。
映画ならその人が生きていた証や、その人が抱えていたかもしれない思いを、別の誰かへとつないでいくことができるわけだ。
残された者はそれでも生きていく
そして残された人間は、それを抱えながらも生きていかなければならない。
彼女は新しい相手をみつけて結婚に向かってるし、家族は残された家族で鍋を囲んで生活している。
死者がいなくなっても、生きている人たちの時間は普通に続いている。
死者にとっては自分が死んだことが世界の終わりでも、生きている側の世界は終わらず、人はそれぞれ自分の人生を続けていく。
それでも、「あいつはあの時、こんなことを考えていたんじゃないか」「生きていたら、今の自分を見てどう思うだろう」と、死んだ人に思いを巡らせることはできる。
忘れるのではなく、ときどき思い出し、偲び、その人が生きていたことを誰かにつないでいく。
そういう意味では、本作は死を描いた映画というより、死者を思うことで今を生きる人間を肯定する映画だったのだと思う。





