2025年に公開された映画『花まんま』。
本作は、朱川湊人の第133回直木三十五賞受賞作を原作に、前田哲監督が映画化した日本映画。
主演を鈴木亮平、妹役を有村架純が務める。
年を取ると涙もろくなると言うけれど、あれって単純に感情が弱くなったというより、人生経験が増えて、物語の中に自分の経験を重ねられるようになったということなんじゃないかと思う。
やっぱりというか、自分もすっかりこの映画で泣かされたわけでして。
本記事ではネタバレ全開で感想考察していきます。
基本情報
作品名:花まんま
原題:Petals and Memories
公開年:2025年
製作国:日本
上映時間:118分
監督:前田哲
脚本:北敬太
原作:朱川湊人『花まんま』
出演:鈴木亮平、有村架純、鈴鹿央士、ファーストサマーウイカ、オール阪神、オール巨人、板橋駿谷、田村塁希、小野美音、南琴奈、馬場園梓、六角精児、キムラ緑子、酒向芳
ジャンル:ドラマ
あらすじ

幼い頃に両親を亡くした加藤俊樹は、妹・フミ子を守るという父との約束を胸に、高校を中退して働きながら兄妹二人で生きてきた。やがて成長したフミ子から結婚を告げられ、俊樹は長年背負ってきた役目が終わることに安堵する。
しかし俊樹には、フミ子について忘れられない出来事があった。幼い頃のフミ子は、自分とは別の女性「繁田喜代美」の記憶を持っていたのである。フミ子の結婚を前に、兄妹はその記憶をたどって滋賀県彦根市を訪れ、過去と現在、二つの家族をつなぐ秘密と向き合っていく。
「関西人」の描き方について
いきなりごめんなさい。
最初にちょっと気になったのが、この映画における関西人の描き方がステレオタイプだということ。
俊樹たちの父親なんか、かなり「こてこての関西人」としてテンション高めに描かれているんだけど、実際の関西人って全員が日常的にそんなテンション高いわけじゃないですよね。
僕にも関西の知り合いは結構いるけれど、普通のテンションで生活して、普通に関西弁を話している。
なのに映画やドラマになると、関西人は極端にデフォルメ傾向な演出になるのは何なんだろう?
それと『BAD LANDS バッド・ランズ』でも思ったけどいらんボケかますのは観ていてしんどい。
結婚式のバージンロードのリハーサルでも、ちょっとしたボケを入れてくるし。
まぁ、別に面白かったらいいんだけどね・・・。
キャスティングについても同じで、関西を舞台にするとファーストサマーウイカ、オール巨人みたいな、「いかにも関西」の顔ぶれを並べたくなるのは何だかなぁ。
というかオール巨人いる?なんかキャスティングしないといけない力関係とかあるのかな?
誤解してほしくないんだけど、僕はしょっちゅう関西にも行くし、関西の友人も多いし、嫌いなんてことは全くないんです。
だけど、「関西が舞台だから・・・」みたいな発想で小ボケとかを演出するのはやめてほしいかな。これこの映画に限らずです。それがしっかり笑いに繋がってるならいいんだけど。
もっと普通のテンションの関西人を描いてもいいし、キャストにももう少し意外性があっていいと思うんだけど。
「アホが物語を作る」理論
フミ子の中には、かつてバスガイドとして生き、刺されて亡くなった繁田喜代美という女性の記憶が残っている。
前世の記憶を持つ人の話というのは世界各地で語られているし、実際のところ人間が完全に解明できていないことなんて世の中にはいくらでもあるので、自分はこういう話を「そんなもの絶対にあるわけない」と完全否定するつもりはない。
もしかしたら、あるのかもしれないしね。
そういう未知の領域を物語として膨らませたものとして見ると、設定そのものは結構面白いと思いました。
繁田喜代美の父・仁は、娘が殺されたとき、自分は天ぷらうどんを食べていたことが許せず、そこから固形物をほとんど食べなくなり、ガリガリに痩せていくっていうちょっと『美味しんぼ』みたいな話なんですけど。「娘の分まで俺が生きてやる」という方向には行かないんですね。
でもそうなると物語は進まないわけで、この親父さんは自分を責めて食事を取ろうとしない。
ある意味でめちゃめちゃ頑固なわけだ。
一方、俊樹も相当頑固です。
俊樹は繁田家がフミ子を「喜代美」として見ていることに強い嫌悪感を持っている。
「フミ子は俺の妹だ」
「繁田喜代美じゃない」
その気持ちは分かるけど、それでもフミ子本人が繁田家との関係を大切にしているなら、そこは兄として尊重してやればいいじゃないか。
しかもフミ子との交流によって、仁はまた食べられるようになったわけで、繁田家にとってフミ子は救いだったわけですよね。
ところが俊樹は、繁田家に対してずっと突っけんどん。
「もう二度と会わない」
「フミ子の家族は俺たちだ」
「あんたたちは関係ない」
くらいの勢いで拒絶する姿は幼稚極まりない。
フミ子が大事にしているものを、俊樹自身が理解できないからといって否定するのは違うんじゃないか。
ただ、ここでまた思う。
以前から自分は「アホが物語を作る」と言っているけれど、今回もそれに近い。
もちろん俊樹をアホと言いたいわけじゃない。
人間の頑固さ、不器用さ、融通の利かなさ、どうしても割り切れない感情。
そういうものがあるから物語は動く。
俊樹が最初から、
「俺には理解できないけど、フミ子にとって大事な人たちなら、それでいいよ」と言える大人だったら、この映画はほぼ成立しない。
正論だけで全員が動いたら、ドラマなんて起きないんですよね。
スピーチで繫田家にふれない理由
中沢太郎というキャラは活躍の場がほぼなかったですね。
太郎が「カラスを研究している」という最初の設定は「何の役に立つねん」という布石で「カラスナビ」のくだりはちょっと笑ってしまったんだけど、逆に言えば太郎の存在感はそのくらい。
「新郎だから用意されたようなキャラ」でもっと活躍の場があればよかったんだけど、物語は彼抜きでも普通に進んでいく。
正直言って途中からどうせ繁田家を披露宴に連れてくるんだろ?
と簡単に展開は読め、その通りに進むが、やっぱり結婚式のシーンには泣かされる。
新婦入場で流れるのが、パッヘルベルの「カノン」。
これはずるいわ、自分がクラシックで一番好きな曲なんですよ。
新婦入場に「カノン」を流されたら、そりゃ感情を持っていかれるって。
さらに俊樹のスピーチなんだけど繁田家について直接触れないんです。
色んな人に支えられて生きてきたという意味で、「ウサギのぬいぐるみをくれたおっちゃんの話」をするくらい。
何でだろう?と疑問に思ったんだけど、そのあとのシーンで繋がりました。
繁田喜代美は、生前、自分自身の結婚式を控えていたがその結婚式を迎えることなく亡くなってしまっていた人物。
フミ子の中にあった喜代美の記憶は、結婚式が近づくにつれて少しずつ薄れていき、結婚式を終えたところで、完全になくなった。
これは喜代美が結婚式を見届けたことで、ようやく天国へ行ったということ。
いわゆる「成仏した」と言う状態である。
最後の「今日はありがとうございました」という場面では、もうフミ子の中に喜代美の記憶はない。
もしもあのスピーチのなかで繁田家の話をすればフミ子の表情に「?」が現れるからだ。
だってこの時点でフミ子の中の喜代美は消えてるのだからここに違和感が生じてしまう。だからスピーチでは繁田家に触れなかったのね。
笑顔ではないラストカット
俊樹も最後は満面の笑顔で終わるのかと思っていたが、俊樹が登場する最後のシーンでは、非常に複雑な表情だった。
フミ子のなかで喜代美が消えてしまういうことはそのまま喜代美が成仏したということ。
あの俊樹の表情には、妹の結婚を喜ぶ気持ちと、死者を送り出す寂しさが同時に入っていました。
そしてあの表情で俊樹の出演シーンは終わってるんです。
「てっきり、妹が結婚してよかった!全部ハッピー!」みたいなのを想像してたけど、全部笑顔で終わらせないのがすごく好印象でした。
そこにはちゃんと死者への弔いが残っているからだ。
繫田家が帰る電車の中で、フミ子が事前に用意していた繁田家への引き出物を開けるシーンでこの映画は終わる。
渡されたのが、「花まんま」。
そこでタイトルがつながる。
全体としては本当に王道だし、ベタなんだけど、残された人がその死をどう受け入れるのか?
そして成仏とは何なのか?
この映画はちゃんと「死者を送り出す話」になっていて考えさせられる内容でした。






