【映画】屋根裏のラジャー(2023)|つまらないどころかもっとしっかり練った方がいい。ハテナしか生まない爆死の109分【ネタバレ考察】

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映画『屋根裏のラジャー』をイメージした画像 アニメ

2023年12月15日に公開されたスタジオポノック制作の長編アニメーション映画『屋根裏のラジャー』。

2017年公開の『メアリと魔女の花』以来、約6年ぶりとなる同スタジオの長編作品。

監督を務めたのは、スタジオジブリで高畑勲監督作品などに携わり、『おもひでぽろぽろ』『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』などの制作に参加してきた百瀬義行。

原作は、イギリスの作家A・F・ハロルドによる児童文学『ぼくが消えないうちに』。子どもの想像から生まれる架空の友達「イマジナリー」を題材に、想像力によって生まれた存在の喜びや孤独、忘れられることへの恐怖を描く。

自分は全くその世界観に没入することはできませんでした。これは本文でじっくりと解説していきます。

本作では、スタジオジブリの手描きアニメーションの技術を継承しながら、フランスのクリエイターたちと協力して新たなデジタル表現を導入。光と影、質感を重視した映像制作に取り組み、10万枚以上の手描きセルを使用したとされる。

一方で、新技術の導入や新型コロナウイルスの影響などによって制作は難航。当初予定していた2022年夏の公開が延期され、スタジオの存続も危ぶまれるほどの厳しい状況を経て完成した。

基本情報




作品名:屋根裏のラジャー
原題:The Imaginary
公開年:2023年12月15日
製作国:日本
上映時間:109分
監督:百瀬義行
脚本:西村義明
原作:A・F・ハロルド『ぼくが消えないうちに』
出演:寺田心、鈴木梨央、安藤サクラ、仲里依紗、杉咲花、山田孝之、寺尾聰、イッセー尾形、かぬか光明、大谷育江、一龍斎貞友 ほか
音楽:玉井健二、agehasprings
主題歌:ア・グレイト・ビッグ・ワールド featuring レイチェル・プラッテン「Nothing’s Impossible」
ジャンル:アニメーション/ファンタジー/アドベンチャー

あらすじ




映画『屋根裏のラジャー』をイメージした画像

少女アマンダの想像から生まれた少年ラジャー。彼はアマンダ以外の人間には見えない「イマジナリー」と呼ばれる存在で、アマンダとともに屋根裏部屋を舞台にした空想の冒険を楽しんでいた。

しかし、ある日、アマンダの前に不気味な男ミスター・バンティングが現れる。彼は子どもたちの想像から生まれたイマジナリーを食べることで、自らの命を長らえさせようとしていた。

やがて思いがけない出来事によってアマンダと離れ離れになったラジャーは、彼女に忘れられれば自分が消えてしまうという危機に直面する。

そんなラジャーがたどり着いたのは、人間から忘れられたイマジナリーたちが集まる不思議な世界。そこには、かつて誰かの想像の友達だったさまざまな仲間が暮らしていた。

ラジャーは新たな仲間たちと出会いながら、アマンダとの再会を目指す。しかし、イマジナリーを狙うミスター・バンティングの魔の手が、再び彼らに迫ってくる。

宮崎駿の呪縛から抜け出そうとするスタジオポノック




前作では宮崎駿作品の影響があまりにも強く、キャラクターの造形から世界観まで、どこかで見たようなものばかりだった。今回は画風を大きく変えており、宮崎駿の呪縛から抜け出そうとする姿勢が感じられる。

しかしスタジオポノックが独自のブランドを確立するためには、細田守や新海誠のように、作品を観ればその作り手ならではの個性が伝わる。そうした確固たるものが必要だと思うし、何より物語そのものが面白くなければ意味がない。

本作は少女アマンダの想像から生まれた少年ラジャーを主人公にしたファンタジー。

ところが、いざ観始めるとどうにも理解できない。

まず空想の人物であるラジャーがアマンダに対して、クローゼットの中に2時間もいたと不満を述べる場面がある。

いや、ちょっと待ってくれ。

ラジャーはアマンダの想像から生まれた人物ではないのか。だったら、アマンダが想像していないクローゼットの中で、どうしてラジャーだけが勝手に2時間を過ごしているのか?

そもそもその2時間は誰の想像なのか?

どうやら本作では、イマジナリーは生み出された後に独立した意思を持つ存在らしい。それ自体はファンタジーの設定として構わない。

しかし想像した本人の認識を超えて行動し、記憶まで持つという仕組みには、どうにも納得できない。

ここで早くも「イマジナリーとは何なのか」という根本的な疑問が生まれてしまった。

さらにアマンダは母親にラジャーの存在を信じてもらえない。

しかし仕事から疲れて帰ってきた母親に、娘が「ラジャーがいる」「知らない女の子がラジャーを連れていった」と訴えたところで、簡単に信じられるわけがない。

むしろ母親の反応のほうが自然だろう。

子どもの想像力を尊重することと、想像上の人物を現実に存在するものとして認めることは別の話なのだ。見えないものを信じない人間が、なぜ悪いかのように扱われなければならないのか。

信じない人の多様性だって認めるべきではないか。

この時点で、私はアマンダよりも母親の立場に感情移入してしまった。

想像上の人物たちが勝手に生き始める理解不能な世界




物語が進むと、忘れられたイマジナリーたちが集まる世界が登場する。

子どもの強い想像力によって生まれたキャラクターたちは、子どもが成長し、自分たちの存在を忘れてしまうと消滅するというようわからん設定。

この設定を聞いて思い浮かんだのが『トイ・ストーリー』だった。

子どもが成長するにつれて、かつて大切にしていた存在が忘れ去られていく。そして、忘れられる側にも感情があり、恐怖がある。

おもちゃがイマジナリーに置き換わっただけで、物語の根本的な構図はパクリだ。

宮崎駿作品から脱却しようとしているのに、今度は『トイ・ストーリー』の既視感がある。キャラクターの雰囲気には依然としてジブリの延長線上にあるものを感じるし、独自性という意味ではどうにも物足りない。

そして何よりこのイマジナリーたちの世界が理解できない。

ラジャーは「僕は消えたくない」と言い出す。ほかのイマジナリーたちも忘れられることを恐れ、勝手に会話し、独自の生活を送っている。

誰かが想像したロボットまで登場し、自分を想像した子どもから必要とされなくなったことを悲しんでいる。

いや、お前ら、そもそも誰の想像なんだよ。

想像した本人が知らないところで、想像上のキャラクター同士が会話し、悩み、落ち込んでいる。

ここまで来るともはや子どもの想像力を描いた物語というより、想像によって生まれた別の生命体の話ではないか。

さらに日本語を喋る猫まで登場する。

しかもその猫がラジャーに対して「質問が多すぎる」と言う。

いや、こっちだって質問しかねえよ、この映画。

そもそもこの街は誰の想像力によって生まれたのか。イマジナリーたちが暮らす場所まで存在するなら、その世界自体は誰が作り出したのか?

どうやら図書館の本に宿る想像力を利用して存在を維持しているらしいが、今度はキャラクターが自分たちの世界の仕組みを一生懸命説明し始める。

もう作者自身も、作りながら「これ、どうなってんねん」と思っていたのではないか。

そしてエミリーという少女。

「イマジナリーを食べる怪物がいる」というラジャーの話を、エミリーは簡単には信用しない。

いや、お前ら自身の存在すらよくわからないのに、何を基準に信じるとか信じないとか言ってんねん。

現実の人間がイマジナリーを信じないことには違和感を覚えさせる一方で、イマジナリー同士では相手の話を疑っている。

さらには想像した子どもが亡くなってもイマジナリーは生き続けているのも意味不明。

忘れられたら消えるという話ではなかったのか。想像した本人が亡くなった場合はどうなるのか。イマジナリーには寿命があるのか。

次々と出てくる例外や追加設定に、もはや頭が追いつかない。

最後までハテナが消えなかった109分間




そして極めつけがミスター・バンティングというメガネの男。

この男はイマジナリーを食べることで、何百年も生き続けているらしい。

いや、想像上の人物を食べるって、どういうことなんだよ。

そもそも何を食べているのか。なぜイマジナリーを食べると寿命が延びるのか。なぜこの男だけがそんな能力を持っているのか。

ほかにも同じ能力を持つ人間がいるのかと思って調べてみたが、映画では確認できない。

しかもバンティングがなぜそのような存在になったのかについては、制作側も劇中では説明していない。

つまり世界の根本的な仕組みを説明するつもりがないということなのだろう。

その世界の中で何ができて、何ができないのか。どういう条件で何が起こるのか。物語を成立させるための最低限のルールは必要ではないか。

何でも想像力で片づけてしまえば、それこそ何でもありになってしまう。

そしてバンティングに付きまとっている貞子のような黒髪の少女。これも彼自身が子どもの頃に生み出したイマジナリーらしい。

しかしヨーロッパを舞台にした作品の中で、あの日本のホラー映画を思わせる風貌がどうにも浮いて見える。

そしていよいよクライマックス。

バンティングは最後、自分のイマジナリーである黒髪の少女を食べそのまま消滅してしまう。

もう、もはやコントである。

他人のイマジナリーを食べれば何百年も生きられるのに、自分のイマジナリーを食べたら消えてしまう。

何でやねん。

振り返ってみれば、最初からずっとそうだった。

疑問が一つ解消される前に、また別の疑問が生まれる。

そして、その疑問を抱えたまま次の場面へ進み、また新しい設定を見せられる。

ファンタジーだから何でもありでいいわけではない。むしろ、現実には存在しない世界を描くからこそ、観客が納得できるだけのルールが必要だと思う。

本作はその部分があまりにも曖昧で、私は最後まで物語の中に入っていくことができなかった。

結局、109分間、私の頭の中にはずっとハテナ、ハテナ、ハテナ、ハテナ。

最後までハテナが浮かんだまま、エンディングを迎えてしまった。

いったい私は何を見せられていたんでしょうか。

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