2014年に公開された映画『STAND BY ME ドラえもん』。
いやぁ、引いた。
藤子・F・不二雄の漫画『ドラえもん』を原作に、八木竜一と山崎貴が監督を務めた3DCGアニメーション映画。
「未来の国からはるばると」「のび太の結婚前夜」「さようなら、ドラえもん」「帰ってきたドラえもん」など原作の複数エピソードを再構成し、一本の物語として描いているんだけど、原作をぶち壊す見事なクソ映画。
今回は声優については触れない。「ドラえもんといえば大山のぶ代」という世代的な話を始めたら、それだけで別の議論になってしまうからだ。あくまで一本の映画として、この作品を見た感想を書きたい。
本記事ではネタバレ全開で感想考察していきます。
基本情報
作品名:STAND BY ME ドラえもん
原題:―
公開年:2014年
製作国:日本
上映時間:95分
監督:八木竜一、山崎貴
脚本:山崎貴
原作:藤子・F・不二雄
出演:水田わさび、大原めぐみ、かかずゆみ、木村昴、関智一、妻夫木聡
ジャンル:アニメーション/SF/ファミリー/ドラマ
あらすじ

何をやってもうまくいかない小学生・野比のび太の前に、22世紀から子孫のセワシとネコ型ロボットのドラえもんが現れる。セワシによれば、このままではのび太の未来は悲惨なものになり、その影響が子孫にまで及ぶという。
未来を変えるため、ドラえもんには「のび太を幸せにしなければ未来へ帰れない」というプログラムが設定される。のび太はひみつ道具の力を借りながら、憧れのしずかとの結婚を目指して成長していくが、やがてドラえもんとの別れの時が近づいてくる。
感動のフルコース
本作を一言で表すなら、「ドラえもんの徹底的な商業化」。
山崎貴監督は、僕の中ではとにかく「分かりやすい感動」を作る監督という印象が強い。
『ALWAYS 三丁目の夕日』なんかもそうだけど、音楽や画面、役者の表情を総動員して、「ここですよ、ここが泣くところですよ」と観客にかなり分かりやすく提示してくる。
バカにしてんのか?と思う時がある。
だって感動ポイントなんてひとそれぞれで探せばいいだろう。映画というものは勝手に余白を楽しむものだと思ってる自分からすれば、まるで介護を受けてるような気分になるのだ。
言うなれば化学調味料を大量に使った料理みたいだ。
誰が食べても味が分かるし、甘いところは徹底的に甘くする。
そして『STAND BY ME ドラえもん』は子ども向けということもあって、その甘さがさらに強い。
もう甘々、ベタベタ、砂糖まみれ。
そもそも本作は、「未来の国からはるばると」「のび太の結婚前夜」「さようなら、ドラえもん」「帰ってきたドラえもん」といった、原作の中でも特に感動しやすいエピソードを一本につなぎ合わせている。
卑怯です。
「泣かせよう、泣かせよう」という圧があまりにも強くて、「ドラ泣き」と揶揄されてますけど、「ドラ泣き」強制されているようで、気持ち悪かったですね。
「さぁ、ここで泣いてください!」
そうすると不思議なもので、泣けるに泣けない。
本来なら自然に感情が出てくる場面なのに、作り手の手が見えすぎて、一歩引いてしまうのだ。
スポンサーに引く
そしてこの映画の商業臭を決定的に感じたのが、未来都市の場面。
ドラえもんとのび太がタケコプターで未来の街を飛ぶシーンで、トヨタ、パナソニック、江崎グリコ、森ビルなど、実在企業の名前やロゴが出てくる。
かなり引いた。
もちろん映画は商売だし、企業の協力が必要なのも分かる。
そんなことは分かった上で、それでも一原作ファンとしては下品に感じてしまう。
藤子・F・不二雄が子どもたちのために作ってきた『ドラえもん』の未来世界が、企業プロモーションの展示場みたいに見えてしまう。
これは原作へのリスペクトなのか、それとも『ドラえもん』という巨大ブランドを使った商品なのか?
自分にはどうしても、作品を作っているというより、「確実に売れるドラえもん」を作っているようにしか見えない。
3DCGにしただけ
申し訳ないけど3DCGにした意味もよくわかんないし、鼻についた。
たとえば、のび太の部屋。
昔から『ドラえもん』を見ている人なら、だいたい頭の中にいつもの構図が浮かぶと思う。
ところが本作では3Dだから、これまで見たことのない方向からカメラが入ってくる。
「ほら、のび太の部屋ってこっちから見るとこうなってるんですよ」「3Dならこんな角度からも見られるんですよ」
そう言われているようなカメラワークがちょいちょい入って、鼻についた。
3Dを物語のために使っているというより、「3Dであること」を見せるために画角を動かしているように見えるからだ。
そしてもっと引っかかったのは、映像は大きく変えたのに、物語の価値観についてはそれほど更新されていないことだった。
代表的なのが、ジャイ子との結婚を回避してしずかと結婚するという話。
もちろんこれは原作の大前提だから、それを変えろという話ではない。
でも、2014年に改めて一本の映画として作るなら、もう少し描き方を工夫できたんじゃないかと思う。
ジャイ子にだっていいところはあるのに構図としては、「ジャイ子とは結婚したくない」「しずかちゃんと結婚したい」という非常に単純なものに見えてしまう。
原作が描かれた時代の価値観があるのは分かる。
小学生の恋愛感情なんだから、かわいい子が好きという単純さがあってもいい。
でも、せっかく現代に3DCGで作り直すのなら、
「ジャイ子にもこういう良さがある。でも僕はしずかちゃんのこういうところが好きなんだ」くらいのブラッシュアップがあってもよかったと思う。
出木杉は何でも一人でできる。
だからしずかは、自分を必要としてくれるのび太を選ぶ。
でも出木杉はしずかに選ばれなかったからといって、あれだけハイスペックなんだからもっと自分に合う女性と普通に結婚して、子どもがいて、ものすごく幸せな家庭を築いていそうなものだ。
まぁ、独身で大成功しててもいいんだけど、つまりは「本当は僕が幸せにしたかった」と酒飲んで愚痴を言うような人間ではないのではないだろうか?
原作への敬意が感じられない最大の理由
そして自分がこの作品に一番強く引っかかるのが、「さようなら、ドラえもん」「帰ってきたドラえもん」の扱いだ。
この話は、単なる「泣けるドラえもん」ではないと思っている。
『ドラえもん』という作品そのものの構造に関わる、ものすごく重要な話だ。
『ドラえもん』における「のび太」という人物は基本的に成長しないのだ。
勉強ができない。運動もできない。根性もない。ドジ。すぐ泣く。
そして困ったらドラえもんに泣きつく。
ドラえもんが道具を出す。のび太が調子に乗る。失敗する。
この循環があるから『ドラえもん』は続いていく。この永遠の平行線で成り立つ世界なのだ。
つまり、のび太が本当の意味で成長してしまったら、ドラえもんはいらなくなってしまう。
だから「さようなら、ドラえもん」で、のび太がドラえもんに頼らず、自分一人でジャイアンへ立ち向かうことには、とんでもなく大きな意味があるし、これはとっておきの最終回なのだ。
このエピソードを映画のラストへ持ってくるなら、自分はこの一本で終わるべきだったと思う。もう『STAND BY ME ドラえもん 2』なんて作っちゃいけない。
だってそれくらいの意味を持つ話だからだ。
ところが実際には続編が作られた。
だったら一作目のクライマックスにこの話を持ってきた意味は何だったのか?
本当に原作における「のび太の成長」の意味を理解して使ったのか?
それとも単純に、「『帰ってきたドラえもん』を入れれば絶対泣くだろ」という理由で選んだのか?
僕には後者に見えてしまう。
原作への愛があるから名エピソードを映画化したのではなく、「感動を確実に取れる素材」として名エピソードを消費しているように見える。
だから最初に言った「商業化」という言葉へ全部戻ってくる。
映画産業としては正しいのかもしれないが、一原作ファンとしては気持ち悪い。
名作エピソードを「絶対に泣ける材料」として並べられることに抵抗がある。
子どもがこの映画を見て初めて『ドラえもん』に触れ、感動することだって素晴らしいと思う。
ただ自分にはどうしても、藤子・F・不二雄が作った名場面を、山崎貴流の分かりやすい感動演出でさらに甘くし、それを巨大な商品として再包装した作品に見えてしまったのだ。
そしてもっと最悪なのが続編だ。↓






