2010年7月17日に公開されたスタジオジブリ制作の長編アニメーション映画『借りぐらしのアリエッティ』。
宮崎駿が企画・脚本を担当し、長年ジブリでアニメーターとして活躍してきた米林宏昌が初めて監督を務めた作品。
原作は、イギリスの児童文学作家メアリー・ノートンが1952年に発表した『床下の小人たち』。原作の舞台を日本の郊外に移し、人間の目に触れないよう暮らす小人一家の日常と、人間の少年との交流を描いている。
これ、一体何が面白いのか?まったくもって理解不能だった。なんでこれがヒットしたんだろう?
こんなんでよければ、刑事をやりながら副業で汁男優を行う男の話『その男狂棒に突き』がなぜもっとヒットしなかったのか?それぐらい帳尻が合わないのだ。
本記事ではネタバレ全開で感想考察していきます。
基本情報
作品名:借りぐらしのアリエッティ
原題:借りぐらしのアリエッティ(英題:Arrietty)
公開年:2010年7月17日
製作国:日本
上映時間:94分
監督:米林宏昌
脚本:宮崎駿、丹羽圭子
原作:メアリー・ノートン『床下の小人たち』
出演:志田未来、神木隆之介、大竹しのぶ、竹下景子、藤原竜也、三浦友和、樹木希林
ジャンル:アニメーション/ファンタジー/ドラマ
あらすじ

郊外に建つ古い屋敷。その床下には、14歳の小人の少女アリエッティが、父ポッド、母ホミリーとともにひっそりと暮らしていた。
彼らは人間の世界から生活に必要なものを少しずつ借りながら生活している。しかし、小人には「人間に姿を見られてはいけない」という厳しい掟があった。
そんなある日、病気療養のために12歳の少年・翔が屋敷を訪れる。
好奇心旺盛なアリエッティは、初めて父とともに人間の生活用品を借りに出かけるが、その姿を翔に目撃されてしまう。
人間に見つかれば、その場所を離れなければならない。それでもアリエッティは、翔が必ずしも危険な存在ではないと感じ、次第に心を通わせていく。
しかし、二人の出会いは、小人一家の平穏な暮らしを大きく変えていくことになる。
宮崎駿の後継者が描く、人間のコピーでしかない小人たち
原作はイギリスの児童文学作家メアリー・ノートンの『床下の小人たち』で、特にヨーロッパの文学を好んで題材にしてきた宮崎駿らしい企画だと思う。ただし今回は宮崎駿自身が監督を務めているわけではない。
その違いが顕著に表れているのが音楽で、宮崎駿作品といえば久石譲の音楽が印象的だが、本作ではフランス出身のハープ奏者セシル・コルベルを起用していたりする。
これは米林監督が、自分自身のアイデンティティを打ち出そうとした部分なのではないかと思うが、肝心のキャラクター造形はどうだろう。
主人公アリエッティと交流する少年・翔。こいつの顔、『耳をすませば』の天沢聖司じゃん。聖司の若い頃なんじゃねえの? というくらいそっくり。
至る所に宮崎駿の影響を受けすぎだし、逆にジブリらしさから大きく外れると「これはジブリじゃねぇ」と言われてしまう。
従来のジブリ作品を踏襲しながら自分の個性を少しずつ加えていくだけでは、どうしても中途半端なジブリ作品になってしまう。
米林監督はまさにその難しさに直面しているように感じた。
そして私が本作を観て最初に抱いた疑問。
そもそも、この小人たちは何者なんだ?
顔も身体も人間そのもの。服装もファッションセンスも人間。暮らしている家も、家具も、生活様式も、全部人間の文化を模倣している。
「小人」と呼んでいるけれど、単に人間を小さくしただけじゃねえか。
宇宙人でもなければ虫でもない。しかし人間でもないというなんとも謎な存在。
小さい人と書いて小人。じゃあ人間なんですか? 人間とは違う生物なんですか?
そもそも彼らはどうやって繁殖しているのだろう?
アリエッティには父親と母親がいるわけだから、当然ながら子孫を残しているはず。では人間とどのような生物学的な違いがあるのか?
私は彼らの存在そのものが理解できない。
途中、足を怪我した父親のポッドを助けたスピラーという小人も登場するが、インディアンのような格好をして、弓矢を持っている野性的な少年。インディアンは人間の一部の歴史だ。こいつも結局人間の模倣じゃねえか。
弓矢だって人間が使ってきた道具だし服装も人間の文化そのもの。
野生的な小人を登場させたところで、結局は人間のコピーにしか見えない。
だったら彼ら独自の文化とは何なのか?人間とは違う発想や思想はどこにあるのか?
人間を小さくしただけの存在が、人間の文化を真似して暮らしている。これを見て何が面白いんでしょうか?
借りぐらしという名の「盗み」
そもそもこの映画のタイトルからして疑問がある。
『借りぐらしのアリエッティ』。
いや、盗んでるだけじゃねえか。
アリエッティ一家は、人間に見つからないように砂糖やクッキー、石けんなどを持ち去り、電気やガスまで利用して暮らしている。
しかし人間の許可を得ているわけではない。
食べ物なんて消費してしまえば返すこともできないし、これのどこが「借りる」なのだろう?
人間が一生懸命働いて作ったものを、勝手に持っていって生活しているだけではないか。
それを「借りぐらし」なんて綺麗な言葉に置き換えている。
しかもそんな小人たちには「人間に見られたら引っ越さなければならない」という謎のルールがある。
何をそんなに人間を恐れているんだよ。
そしてアリエッティという主人公の考え方もどうにも好きになれない。
特に違和感があったのは、翔との会話だ。
翔は世界には約67億人の人間がいることを伝え、小人たちが減っている現実に触れながら、彼らが滅びゆく種族なのではないかと指摘すると、アリエッティは悔しさと怒りで声を震わせながら、「私たちはそう簡単に滅びたりしない!」「私たちはただ、必死に生きているだけ。命がけで生活しているんだ!」という趣旨の言葉を叩きつける。
自分たちは人間から物を借り、そうやって今まで生きてきたと、自分たちの生き方を正当化しているだけに過ぎなく、
お前、開き直りやんけボケ。としか思えない。
人間の物を勝手に持っていく行為を当然の権利だと思っている。その価値観が絶対に正しいと信じて疑わない。完全にまともじゃありません。
家政婦ハルは本当に悪者なのか?
樹木希林が声を担当している家政婦のハル。
本作では、このハルが悪役(トラブルメーカー)のポジションのような存在として描かれている。
私はここでも疑問を抱いた。
ハルって、そんなに悪い人間なんですか?
例えば、蚊。
蚊に刺されると痒いですよね。だから人間は蚊を殺す。
これを悪い行為だと考える人が、どれだけいるのだろうか?
あるいは、祭りの金魚すくい。
うちの子供も祭りで金魚をすくって持ち帰ることがある。
しかしだいたい死んでしまう。
子供は金魚を飼いたいと思っているだけで、別に殺そうとしているわけではない。
それでも結果として、金魚は死んでしまう。
ハルが小人を捕まえて自分のペットのように扱おうとすることと、本質的には何が違うのだろう?
もちろん、小人の立場からすれば迷惑極まりない話だろう。しかしハル自身には悪気がないようにも見える。
人間がほかの生き物を勝手に捕まえ、自分の都合で扱う。
それは現実社会でも日常的に行われていることではないか。
それを本作では、ハルだけがまるでサイコパスのような悪人として扱われている。いや、人間ってまさしくそういう生き物じゃないですか。
動物愛護団体などが、人間の行為ばかりを問題視することもある。
しかしライオンだって獲物をいたぶりながら殺してその肉を食べるではないか。
野良猫や放し飼いの猫にとって、ネズミは獲物の一つだし、腹がすけばネズミを食料と見なし、追いかけて捕まえ、食べてしまうのだ。
人間だけが特別に残酷な生き物なのだろうか?
自然界ではさまざまな生き物がほかの生き物を犠牲にして生きている。
では本作では一体、どちらの視点で物語を観ればいいのだろう?
小人たちに感情移入すればいいのか。それとも人間の立場から観ればいいのか。
ところがアリエッティたちは姿形も文化も人間そのものだからどうにも感情移入できない。
そもそも人間と小人の違いすらよくわからないのだから。
そしてやかんに乗っていく。
そして最後まで観て驚いた。
アリエッティ一家は住み慣れた場所を離れ、やかんを船にして新天地へ旅立っていく。
いや、そのやかんだって人間が作ったものじゃねえか。
やかんは人間の文明が生み出した素晴らしき道具であり、人間が長い歴史の中で作り上げてきた今もかかせない生活用品だ。
お前ら最後の最後まで人間に頼ってるじゃねえか。
本当に何だったんだ、この映画は一体。
ちなみに、嫁曰く、この作品は絶滅危惧種のドキュメンタリーらしい。
道理で物語にワクワクしないわけだ。
確かに、絶滅の危機に瀕した小人たちが、新たな住処を求めて移動する物語と考えれば、そういう見方もできるのかもしれない。
「人間に見つかったから、引っ越す」という、小人にとっては死活問題だが、物語としては非常に地味でプライベートな顛末に終始している。
しかしそれならなおさら、彼らが一体どういう生物なのかを知りたくなる。
そうした根本的な部分がよくわからないまま、人間とそっくりな小人たちが、人間のものを盗み、人間を恐れ、最後は人間の作ったやかんに乗って去っていく。
これが一体何なのか。
原作を読んだことがないので、メアリー・ノートンが本来何を描こうとしていたのかはわからないが、少なくとも映画としての本作からは、私には何も伝わってこなかった。






