【映画】火垂るの墓(1988)|今も成仏できない清太と節子の幽霊の真実・海外の反応は?【ネタバレ考察】

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映画『火垂るの墓』をイメージした画像 アニメ

1988年に公開された映画『火垂るの墓』。

Netflixで配信されてからまさかの世界中で評価されている本作。

え?この作品がなぜ?と思ったけど、彼らのレビューを見て納得でした。

今回は高畑勲の名作『火垂るの墓』について存分に語ります。

本記事ではネタバレ全開で感想考察していきます。

基本情報




作品名:火垂るの墓
原題:Grave of the Fireflies
公開年:1988年
製作国:日本
上映時間:88分
監督:高畑勲
脚本:高畑勲
原作:野坂昭如『火垂るの墓』
出演:辰巳努、白石綾乃
ジャンル:アニメーション、戦争、ドラマ

あらすじ




映画『火垂るの墓』をイメージした画像

1945年9月21日、14歳の清太は三ノ宮駅の構内で衰弱死する。その所持品だった錆びたドロップ缶には、4歳で亡くなった妹・節子の小さな骨が入っていた。

物語は時間を遡り、太平洋戦争末期の神戸へと移る。神戸大空襲によって家を焼かれ、母を亡くした清太と節子は、親戚の家へ身を寄せる。しかし、戦況が悪化するにつれて叔母との関係も険悪になり、清太は節子を連れて家を出る。

二人は防空壕で暮らし始めるが、食料は次第に尽きていく。清太は畑から野菜を盗み、空襲で無人になった家から食料を持ち出して節子を守ろうとする。しかし節子は栄養失調によって衰弱し、二人の生活は静かに破綻していく。

今も終わらない戦争の物語




『火垂るの墓』が公開されたのは1988年だが、現在はNetflixを通じて世界中の人々がこの作品を見ている。

古い日本の戦争映画でありながらここまで国境を越えて共感されているのは、本作品が描いている悲劇が、決して過去のものになっていないからだ。

今もウクライナやガザをはじめ、世界の各地で戦争が続いていて、家を失い、親を失い、食べるものすらなくなった子どもたちがいる。

清太と節子が経験した光景は、何十年も前の日本だけの出来事ではなく、現在も世界のどこかで繰り返されているのだ。

だから海外の人々も、本作品を単なる昔の悲しい物語として見ているわけではない。

「この子どもたちが何をしたというのか」「なぜ何の罪もない人間が犠牲にならなければならないのか」という怒りや悲しみが、今の現実とそのまま重なってくる。

その海外の人たちのレビューを見ていると、何十年たっても人間は結局同じことを繰り返しているだなと思ってしまう。

本作はアメリカを一方的な悪者として描いていない。さらに戦争に対して強い反戦のメッセージも感じない。

あるのは戦争という時代に飲まれてしまった純粋で優しい兄弟の姿だ。

だからこそアメリカ人だってフラットに観ることができるのではないだろうか?

いまも成仏ができていない清太と節子の幽霊




さて、「1945年9月21日、僕は死んだ」というナレーションから始まる本作。

彼は最終的には三ノ宮の駅で野垂れ死ぬわけだけど、本作はずっと清太の視点で物語が進んでいく。

そしてエンディングでは、復興してビルが建った神戸の華やかな街並みを清太が眺めているシーンで終わっている。

つまり、清太と節子の霊は今も成仏できていないということなのだ。

そして本作品、清太が我々観客(カメラ)を観るシーンが2回だけある。

一回目は冒頭のシーン。二回目はラストの節子が清太の膝で寝落ちしたあとすぐである。

この時の清太の目は無表情。

そして節子が起きている時は絶対に清太はこちら(観客)を見ない。

もしかしたら節子は自分が死んだことを自覚しておらず、幽霊となった清太は節子に死んだことを言っていないのかもしれない。

だから彼は節子が寝たあとすぐにスッとこちらを見る。

これにはどんな意味があるのだろうか?

自分が考えるにいままでの清太の語りはまさに「観客に向けて」の語りだったということ。

彼らは自分自身が死んだ後の日本をずっと見てきた。これはラストシーンで明かされてることだ。

まさに「これが僕の話でした」と静かに伝えるような目。しかしここから「何かを訴えたい」という感じが伝わってこないんだよなぁ。

あるのは全ての喪失感だけ

そしてここに彼らの父と母はいない。なぜだろう?

まだこの世に「精神が残っている状態」だと考えてみた。「安らかに眠る」という言葉があるが、節子は自分が死んだこと気づいていないし、清太は安らかに眠ることができない状態なのだ。

叔母の家で出て二人で生きることを決めた清太だが、結局は節子を守ることができなかったわけだ。

自分は一人の男として大事な妹を守ることができなかった。

そんな彼の苦悩・喪失感が清太自身を縛っているのかもしれない。

煌びやかな神戸の街並みが輝いて見えるのが余計切ない。

なんだかすっかり平和ボケしている我々だが、この表情でずいぶんハッとさせられてしまった。

叔母は悪者ではない




本作で印象的なのが、清太と節子を引き取った叔母だ。

当初は二人を家に置き食事も与えているが、戦争が長引き食料が乏しくなるにつれて、二人の分まで負担することが重荷になってきて、次第に厳しく当たるようになる。

これは単なる意地悪ではなく、金や食料の貧しさが、そのまま心の貧しさへ変わっていく過程として描かれているのだと思う。

ただし叔母だけを悪者にすることもできない。二人をただで引き取り、いつ空襲が起きるかも分からない状況で養っている。

「働かざる者食うべからず」という感覚も、戦時下の現実を考えれば、極端に理不尽とは言い切れない。

清太にも何か手伝いをする、自分が食料を得てくるという姿勢があってもよかったのではないかとは思うが、清太はまだ14歳である。

現実を受け入れ、最善の判断を続けられる年齢ではない。

そして叔母との生活に耐えられなくなった清太は、節子と二人だけのクローズドな世界で生きることを選ぶ。

その選択が、結果的には最悪の結末につながるわけだが、清太が悪い、叔母が悪いと単純に片づけられる話ではない。子どもが二人だけで生きるしかないと思い込むところまで追い詰められた社会そのものが恐ろしいのである。

生きる支柱




清太がどれだけ必死に動いても、食べ物そのものがない。節子は次第に栄養を失い、体力も落ちていく。兄の愛情や努力だけではどうにもできない。まさにそれが戦争なのだと思う。

清太は心のどこかで日本が勝つことを信じていたのではないだろうか。海軍にいる父親も生きていて、いつか帰ってきてくれる。

その希望が極限状態を生き続けるための心の柱になっていたように見える。

ところが日本が敗れ父親も戻ってこないという現実を知る。

「いつか父親が帰ってきて、自分たちを救ってくれる」という最後の希望まで一度に失った瞬間だった。

人は食べ物だけで生きているわけではない。この先に何かがある、この状況はいつか良くなるという希望があって初めて生きる活力を保てるものだ。

日本の勝利と父親の帰還は清太にとって未来を信じるための心の支柱だったのではないか。

その柱が折れたあとは自分たちだけのために生きるしかなくなる。しかし節子を失えば、清太にはもう生きる理由そのものが残らない。

清太の心が急速に壊れていく流れを考えると、敗戦とは国家が負けることだけではなく、一人の少年が未来を信じるためにしがみついていたものまで奪う出来事だったのだと思う。

子供の頃から何度も観ているが、改めて高畑勲はなんて重い物を我々に託したんだと思いたくなる。

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