2024年11月15日に公開された日本のサスペンスホラー映画『他人は地獄だ』。
原作は韓国で生まれた人気WEBコミックで、日本では2018年8月からLINEマンガで連載を開始。2024年6月時点で世界累計9.8億閲覧を記録し、2019年にはイム・シワンとイ・ドンウクの出演によって韓国でテレビドラマ化された。本作はその原作を日本の設定に置き換えた実写映画版にあたる。
主演はダンス&ボーカルグループWATWINGの八村倫太郎と、俳優の栁俊太郎。八村が上京先で不可解な事件に巻き込まれる青年ユウを演じ、栁がシェアハウスの住人たちを束ねる謎めいた男キリシマを演じる。共演には岡田結実、青木さやか、萩原聖人らが名を連ねる。
基本情報
作品名:他人は地獄だ
原題:他人は地獄だ
公開年:2024年11月15日
製作国:日本
上映時間:123分
監督:児玉和土
脚本:児玉和土
原作:ヨンキ『他人は地獄だ』(韓国WEB漫画)
出演:八村倫太郎、栁俊太郎、岡田結実、三浦健人、青木さやか、大倉空人、鈴木武、松角洋平、星耕介、濱津隆之、萩原聖人 ほか
ジャンル:サスペンス/ホラー
あらすじ

地元での生活に閉塞感を抱いていた青年ユウは、新たな生活を始めようと上京し、恋人のメグミを訪ねる。しかし、突然やって来たユウにメグミは困惑し、同棲をめぐって口論に発展。行き場を失ったユウは、格安シェアハウス「方舟」に住むことになる。
そこには、粗暴なヤクザ風の男・山口、卑屈な笑顔を浮かべるマル、愛想のよい管理人よし子、挑発的な態度のゴロー、そして物腰は丁寧ながら得体の知れないキリシマなど、奇妙な住人たちが暮らしていた。
入居した夜、ユウは山口とマルが激しく口論する姿を目撃する。ところが翌朝、山口は突然姿を消してしまう。
住人たちの不自然な言動に不安を募らせるユウは、やがて恐ろしい疑惑を抱き始める。彼らは新しく入居してきた人間を殺害しているのではないか。
逃げ場のないシェアハウスで、ユウは住人たちの正体と、そこで起きている不可解な出来事の真相に迫っていく。
格安シェアハウスに集まる人間たちと、金があることの意味
私自身、シェアハウスに住んだ経験はないけれど「格安」という設定には妙な説得力を感じた。
というのもこれは飲食業界にも通じる話だから。
私は普段からさまざまな価格帯の飲食店に足を運んでいるけれど、価格によって客層が変わることは実際にある。高級店の場合、ある程度の金額を支払える人しか来店できないため、価格そのものが一種のふるいとして機能している。
一方、安価な店では、店の営業方針や価格設定を理解せず、自分の狭い価値観だけで批判する客に出くわすこともある。
例えば飲食店は料理だけでなくアルコールの売上も含めて商売を成立させている。それなのに水だけで済ませようとしたり、価格を見てすぐに「高い」「ぼったくり」と騒いだりする人もいる。
もちろん高級店にも客層の悪い人はいるし安い店に来る人が全員そうだという話ではない。あくまで僕が飲食業界で感じてきた相対的な傾向の話だ。
そしてこうした価格と客層の関係は、飲食店だけでなく住環境にも当てはまるのではないかと思った。
本作のシェアハウスには、ヤクザ風の男をはじめ、素性のわからない住人たちが集まっている。入居審査がどの程度行われているのかも不明で、共同生活を送るにはあまりにも不気味な環境。
経済的な余裕があればわざわざこうした場所を選ばず、もっと条件のいい住居に暮らすという選択肢もあるだろうが、誰もが自由に住む場所を選べるわけではない。
結局、金は大事だという話になる。
経済的な余裕は、単にいい家に住めるというだけでなく、自分がどんな環境に身を置き、どんな人間と関わるかを選べる自由にもつながる。
本作は幽霊や心霊現象を描くホラーではなく、人間そのものの狂気を描こうとしている作品。社会から孤立し、失うものがなくなった人間たちの恐ろしさを表現したかったのかもしれない。
この舞台設定には、それなりに考えさせられるものがあった。
1980〜90年代の悪役を思わせる古臭い演出と、説得力のない脚本
ただし映画としての出来については、かなり厳しいことを言わざるを得ない。
まず物語の展開があまりにも想像どおり。
シェアハウスに入居すると、見るからに怪しい住人たちが次々と現れる。「こいつらは絶対にヤバいだろうな」と思っていたら、案の定そのままヤバい連中だったという展開。
さらに気になったのが演出の古臭さ。
これは俳優の演技力だけの問題ではなく、監督の演出そのものに問題があると感じた。
例えば、シェアハウスのリーダー格であるキリシマが、坊主頭の住人に目配せする場面。
主人公のユウに手を出そうとする坊主頭の男に対し、キリシマが首を横に振って「まだ手を出すな」と無言で制止する。それを見た男が、ユウを通してやる。
いや、ダサい。
何なんだこの1980〜90年代の映画に出てくる悪役みたいな演出は。
いかにも悪党の親玉らしい振る舞いを、わざわざ見せつけてくる。こういうわかりやすすぎる芝居をさせるから怖いどころか安っぽく見えてしまう。
住人の一人である異様に痩せた男性の容姿には確かに不気味さがあった。実際に目の前にいたら、ちょっと怖いと思う。
全体的にはどこかインディーズ映画のような安っぽさが漂っている。主人公を演じる八村倫太郎の芝居についても、特別うまいとは感じなかった。
そして演出以上に問題なのが脚本。
メグが寝ている横にシェアハウスの住人が写っている写真が送られてくる場面。
いや、普通に警察に行けよ。
彼女の寝室に不審者が侵入した可能性があり、しかも写真という証拠まで残っている。
それなのになぜかユウは自分で解決しようとする。
もちろん主人公が警察に頼らず事件を解決する映画なんていくらでもある。しかしそうするなら警察に相談できない理由を脚本で描かなければならない。
警察に行っても相手にされなかったとか、通報すれば彼女を殺すと脅されているとか、何かしらの事情が必要だろう。
その説明がないから、観客から「なんで警察に行かないの?」というツッコミを真正面からぶつけられることになる。
登場人物が自然に行動しているのではなく、脚本の都合で動かされているようにしか見えない。
終盤にもキリシマがゆっくり歩いてユウを追いかける場面がある。
ところが走って逃げているはずのユウが、なぜか何度も転ぶ。
一度ならまだわかる。しかし何度も繰り返されると、キリシマが歩いて追いつくという展開を成立させるために無理やり主人公を転ばせていることが見え見え。
こうした演出が、とにかくダサい。
『ファイト・クラブ』を思わせる結末
物語の終盤では、主人公が認識していた出来事と現実との食い違いが明らかになっていく。
メグはすでに殺されていたにもかかわらず、ユウの認識の中では生きているかのように描かれていた。そして、キリシマという人物も実際には存在しないユウの妄想だったという真相が示される。
この展開を見て、真っ先に思い出したのがデヴィッド・フィンチャー監督の『ファイト・クラブ』。
主人公が認識していた人物や出来事が、実は現実とは違っていたという仕掛け。
もちろん細かな設定まで同じというわけではないけれど、構造としては既視感しかない。
そもそも、主人公の精神状態がおかしくなっていることを匂わせる作品では、最後に「実は主人公自身の認識がおかしかった」という展開はもはや定番。
最後まで結局キリシマという存在が何を目的としていたのか、よくわからなかった。
人間の暴力性や狂気を象徴する存在として描きたかったのかもしれないが、最後に意味深なことを語らせたところで、それまでの物語に深みが生まれるわけでもない。
さらにラスト15分ほどになって突然、萩原聖人演じる刑事が登場するんだけど、これがまた事件の真相を観客に説明するためだけに出てきたような人物で、ほとんど解説役にしか見えない。
せっかくの俳優をこんな使い方しかしないのかと思ってしまった。
そして最後にはユウが警察の拘束から逃れるような展開まで用意されているが、武器も持っていないユウがいったいどうやって大人たちを倒して脱走できたのか?
普通ならそのあたりの整合性も気になるところだが、ここまで来るとそんな疑問を真剣に考えることすら馬鹿らしくなっていた。
なんともつまらない映画だった。





