1984年に公開された映画『風の谷のナウシカ』。
もちろん子供の頃から何度も観た映画だ。
しかしどうしても自分は本作が好きになれない。
今回改めて鑑賞してこのモヤモヤした気持ちを言語化することができたので記事にしようと思う。
本記事ではネタバレ全開で感想考察していきます。
基本情報
作品名:風の谷のナウシカ
原題:Nausicaä of the Valley of the Wind
公開年:1984年
製作国:日本
上映時間:116分
監督:宮崎駿
脚本:宮崎駿
原作:宮崎駿『風の谷のナウシカ』
出演:島本須美、辻村真人、京田尚子、納谷悟朗、永井一郎、宮内幸平、八奈見乗児、矢田稔、吉田理保子、菅谷政子、坂本千夏、家弓家正、榊原良子
ジャンル:SF/ファンタジー/アニメーション
あらすじ

高度な産業文明を崩壊させた「火の7日間」から1000年。地上には有毒な瘴気を放つ菌類の森「腐海」が広がり、人類は巨大な蟲たちに脅かされながらわずかに生き延びていた。
辺境の小国「風の谷」の族長の娘ナウシカは、人々が恐れる腐海や蟲を敵視せず、その生態を理解しようとしていた。そんなある日、巨大国家トルメキアの輸送船が風の谷近くへ墜落。船には、かつて世界を滅ぼした巨神兵を復活させるための秘密が積まれていた。
巨神兵をめぐってトルメキアとペジテの争いに巻き込まれたナウシカは、人間同士の戦争と腐海の脅威に直面する。その中で、腐海が存在する本当の意味へと近づいていく。
宮崎駿の世界観に入るまでが、まず一苦労
やっぱり、この世界が苦手だ。
そもそも自分は虫が嫌いだ。そこへ人間よりはるかに巨大な王蟲をはじめ、とんでもないサイズの蟲が次々と出てくる。しかも空まで飛ぶ。
なんで虫がこんなにデカいのか?
「火の7日間」によって高度文明が崩壊してから1000年後。有毒な瘴気を放つ腐海が広がり巨大な蟲たちが生息しているのは分かる。
でもなぜ蟲があそこまで巨大になったのか?
なぜ王蟲には人間の感情を読み取るような知性があるのか?
巨神兵とは一体何なのか?
もちろんファンタジーなのですべてに現実的な説明を求めるのも違うのは理解している。
結局、「この世界ではそういうもの」と受け入れるしかないのだ。
だけど自分はこの作業が昔から苦手なんだと思う。
宮崎駿がゼロから作った世界へ入って、「巨大な蟲がいます」「蟲には高度な知性があります」「昔は巨神兵が世界を焼き払いました」と言われたら、まず疑うことをやめなければならない。
逆にここをスッと受け入れられる人なら、腐海も王蟲も魅力的な世界観になるのだろう。
アスベルを見ていたら、どうしても『天空の城ラピュタ』のパズーに見えてくる。
巨神兵を見てもラピュタのロボット兵が頭に浮かぶし、失われた高度文明、飛行機械、軍事国家など、後の『ラピュタ』へつながっていくようなモチーフも多い。
自分には『ナウシカ』で描いたものを、もっと冒険活劇として分かりやすくエンタメへ振ったのが『ラピュタ』にも見えた。
だから自分は『ラピュタ』のほうが圧倒的に入りやすいのだと思う。
自分はナウシカにはなれない。完全に人間側だった
そして今回、一番引っかかったのがナウシカ自身だった。
正直、苦手。
ナウシカはあまりにも「いい子」すぎるからだ。つまんねぇ。
学校でいえば生徒会長とか学級委員みたいな超優等生なのがつまんない。だって人間だけではなく、蟲にも寄り添い、敵にも理解を示し、すべての生命が共存できる道を探そうとする、まるで聖人君主みたいな存在だから。
そりゃ言っていることは分かるんですよ。
自然を破壊してはいけない。人間だけの都合で他の生命を排除してはいけない。人間同士の争いに自然まで巻き込んではいけない。
うん、全部正しい。正しいよ?
でもそもそも自分はそこまで人間を綺麗な生き物だと思っていない。
人間が生きている時点で、何かを犠牲にしている。肉も魚も食べる。土地を使う。木を切る。資源を消費する。そもそも自然界では、人間以外の生物だって別の生命を食べながら生きているのだ。
「生きる」という行為そのものが、完全に無傷の共存とは両立しないのだ。
人間が生きてる時点で何かが犠牲になってる世界だから。
だから「人間も自然も蟲もみんな一緒に生きよう」というナウシカの思想は理解できても、自分にはどうしてもただの理想論に見えてしまう。
ましてやこの世界の蟲はデカくて人間を襲うこともある。
王蟲の大群なんてやって来たら人間の集落そのものが消し飛ぶに決まってる。
そんな世界で暮らしていたら、「蟲を殺すな」と言うナウシカより、「危険だから排除しよう」と考える人間側の気持ちのほうが自分にはずっと理解できる。
虫への嫌悪感や警戒心だって、すべてが人間の身勝手さとは思わない。現実の虫には病原体を媒介するものもいれば、毒や刺咬によって人間へ害を与えるものもいる。
危険な生物を避けようとする感覚は、人間が生き残るための防衛本能でもある。
極論だけど、ゴキブリと共存できますか?
無理無理。
だから自分がこの世界の住人だったら、たぶんナウシカ側には立たない。完全に人間側だ。
そしてここまで観てようやく気づいたのが、自分が映画で見たいのはナウシカのような理想的な人間ではないということ。
欲望があって、嫉妬して、身勝手で、弱くて、矛盾して、ときには残酷な人間が見たい。
そちらのほうに人間の本質を感じる。
だから生徒会長みたいなナウシカに全く魅力を感じない。
ナウシカのような「正しい人」を見続けていると、どうしても綺麗ごとに見えてしまうのだ。だって自分は「正しい」を理解してはいるけど、ナウシカのような「正しい人間」ではないからだ。
なぜ『ナウシカ』が好きじゃないのか、数十年ぶりにようやく分かった
さらにしんどかったのが、作品から感じる強烈なメッセージ性。
人間は争う。
人間は自然を破壊する。
そして、その人間の愚かさによって自然まで傷ついていく。
何を描こうとしているのかはものすごく分かりやすい。
ただ、それが少々説教臭く感じられてしまう。
それは『もののけ姫』を観たときにも似た感覚があった。
宮崎駿から「人間は愚かだ」と延々と言われているように感じてしまう。
別に宮崎駿作品そのものが嫌いなわけではないんです。
『となりのトトロ』はファンタジーの世界そのものを楽しめる。
説教臭いメッセージ性もあまりないのでトトロが何者なのかを理屈で理解する必要もないし、強烈な思想を受け取らなければ楽しめない映画でもない。
『魔女の宅急便』もそう。
空を飛ぶ魔女という完全なファンタジーでありながら、そこで描かれるのは思春期の女の子の孤独や挫折、成長だったりする。むしろ人間の感情にはリアリティを感じる。
つまり自分はファンタジーの世界へ入ることを要求されたうえで、さらに制作者の強い思想まで受け取ることを求められる作品が苦手だったのだ。
『風の谷のナウシカ』は、まさにそこへ全振りしているように見える。
もちろんだからこそこの映画を好きな人が大勢いるのも理解できる。
自然と人間の関係、生命のあり方、戦争、文明。単純な冒険映画では終わらないからこそ、公開から長い年月が経っても語られ続けているのだろう。
ただそれと自分が面白いと思うかは別の話だ。
数十年ぶりに最後まで観て、「なぜ自分は昔から『ナウシカ』が好きじゃなかったんだろう?」という疑問には、ようやく答えが出た気がする。
そして映画が終わったとき、自分の中に残っていた一番率直な感想はこれだった。
この映画、一体いつになったら面白くなるんだろう?







