【ドラマ】僕と彼女と彼女の生きる道(2004)|ステレオタイプな価値観とのギャップ・全部あざとさ【ネタバレ考察】

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テレビドラマ『僕と彼女と彼女の生きる道』をイメージした画像 人間ドラマ

2004年1月6日から3月23日まで関西テレビ・フジテレビ系で放送された、全12話のテレビドラマ『僕と彼女と彼女の生きる道』。

主演は草彅剛。脚本を橋部敦子が担当し、演出は平野眞、高橋伸之、三宅喜重が手がけた。

仕事一筋だった男性が妻の家出をきっかけに幼い娘と向き合い、親としての責任や家族の意味を学んでいく家族ドラマ。

本記事ではネタバレ全開で感想考察していきます。

基本情報




作品名:僕と彼女と彼女の生きる道
原題:僕と彼女と彼女の生きる道
公開年:2004年1月6日〜3月23日
製作国:日本
上映時間:54分(通常回・全12話)
監督:平野眞、高橋伸之、三宅喜重(演出)
脚本:橋部敦子
原作:オリジナル脚本
出演:草彅剛、美山加恋、小雪、東幹久、要潤、山口紗弥加、浅野和之、大森南朋、田村たがめ、りょう、小日向文世、大杉漣、長山藍子
ジャンル:ヒューマンドラマ/家族

あらすじ




テレビドラマ『僕と彼女と彼女の生きる道』をイメージした画像

銀行員の小柳徹朗は、仕事一筋で家庭を顧みず、妻の可奈子や幼い娘の凛にもほとんど関心を示さずに暮らしていた。

しかしある日、妻から突然離婚を切り出され、可奈子は娘を残して家を出てしまう。

それまで育児に関わってこなかった徹朗は、凛との生活に戸惑いながらも、娘の家庭教師を務める北島ゆらの助言を受け、少しずつ父親としての自覚を持ち始める。

仕事を優先してきた人生を見つめ直し、娘との関係を築こうとする徹朗。やがて仕事や夫婦関係にも変化が訪れる中、親子はそれぞれの幸せと生き方を模索していく。

2004年のドラマに感じる、時代のギャップ




2004年に放送された草彅剛主演のドラマ。当時もなんとなく観ていた記憶はあるけれど、今回は自分自身が父親になってからの再鑑賞ということで、ずいぶん印象が変わった。

主人公の小柳徹朗は、仕事一筋の銀行員。妻の可奈子が突然家を出てしまい、幼い娘の凛と二人で生活することになる。

しかしこの徹朗がとにかく冷たい。娘に対する愛情がほとんど感じられず、育児は妻の仕事、自分は外で働いて金を稼いでいればいいという考え方。超ステレオタイプ。

私自身、子どもと過ごせる時間はできるだけ大切にしたいと思っている。朝起きる時間も、お風呂に入る時間も、一緒に寝る時間も、子どもが小さいうちにしかできないことがある。だからこそ娘と積極的に関わろうとしない徹朗の姿には強い違和感があった。

しかも驚いたのは、当時の職場や家庭における価値観。

上司は部下を飲みに誘って説教するし、接待も仕事のうちだと平然と言い放つ。勤務時間が終わっても上司や取引先との付き合いを求められる。今でいうパワハラにつながりかねない光景が、当たり前のように描かれている。

さらに徹朗の父親は、息子の離婚について「女房に捨てられたなんてみっともない」と世間体を気にする始末。

いや、男女差別もなかなかひどい。

もちろん、2004年当時の日本人が全員こういう価値観だったわけではないだろう。ただ、今観ると相当古く感じる考え方が、ドラマの中ではごく自然に飛び交っている。

わずか22年前の作品なのに、ここまで時代のギャップを感じるとは思わなかった。

徹朗の変化が急すぎないか?




本作は、娘に無関心だった父親が二人で生活するうちに少しずつ愛情を育んでいく物語。

その方向性は理解できるし、親子の関係が変化していく過程には心を動かされる部分もある。

特に印象的だったのは第3話で凛がハーモニカを吹く場面。

以前の徹朗なら「うるさい」と叱っていたかもしれないが、このときは自分から「俺も吹いていい?」と声をかける。

娘の存在をただ受け入れるだけでなく、娘と一緒に何かを楽しもうとする。父親としての変化が伝わってくるいい場面だった。

ただ気になるのはその変化のスピード。

第1話と第5話の徹朗は、もはや別人と言っていい。

もう一つ、二つくらい、親子の距離が決定的に縮まるエピソードが欲しかった。

しかも娘への愛情が芽生えたからといって、徹朗自身が人間として成熟したわけではない。

第5話では凛のカバンがなくなったことで学校に強く抗議する。娘を心配するのは当然としても、教師に責任を押しつけるような態度は、見方によってはモンスターペアレントそのもの。

さらに凛の家庭教師である北島ゆらに対しても距離感がおかしい。

相手が寝ている時間に平気で電話をかけ、「小柳だけど」と馴れ馴れしく話しかける。困ったことがあれば愚痴を聞いてもらい、精神的な支えまで求める。

いや、彼女でも妻でもねぇから。

ゆらからすれば、ここまで依存されるのは相当な負担ではないだろうか。

ところが、ゆらはそんな徹朗をほとんど受け止めてしまう。

この女性の描き方にも違和感があった。男性の身勝手さや精神的な弱さを、献身的な女性が優しく包み込む。そんな古い時代の理想の女性像を見せられているようで、どうにも気持ちが悪い。

ゆら自身にだって不満や感情はあるはずなのに、そこがあまり見えてこない。

娘への愛情が育つことと、他人への配慮ができることは別問題。徹朗を見ていると、そんなことを考えさせられる。

人物設定も演出もあざとい




本作で気になったのが、登場人物たちがあまりにもわかりやすい役割を背負わされていること。

例えば、妻の可奈子。

彼女は7年間、娘の凛を育てるために自分の時間を犠牲にしてきたと訴える。やりたいこともできず、ずっと育児に追われてきた。だから、たった数か月娘の面倒を見ただけの徹朗に父親面されたくないという言い分。

一方の徹朗は、仕事を大義名分にして育児から逃げてきた。

つまり母親にとって凛は自分の自由を奪った存在であり、父親にとっては仕事の妨げになる存在として描かれている。

これがどうにも引っかかった。

凛という一人の子どもが、夫婦それぞれの自己犠牲や身勝手さを象徴するための存在になってしまっている。

親の都合ばかりが語られ、娘自身の存在が置き去りにされているように感じる。なんだか凛がかわいそうになってしまった。

そして、もう一つが肩書きへの執着。

徹朗もその父親も、銀行という組織の中での立場や世間体を異常なほど気にしている。

小日向文世演じる井上部長に至っては、出世競争に敗れたことが自殺未遂につながってしまう。

もちろん仕事での挫折が人を深刻に追い詰めることはあるだろうが、その苦しみに至る心理描写が十分でないまま極端な展開を見せられると、どうしても脚本の意図が透けて見える。

言いたいことはわかるが、そこまで極端な人物を登場させないと伝えられないものなのだろうか?

私は現在、自分で会社を経営している。サラリーマンを辞めた立場からすると、銀行内の出世競争に人生を左右される登場人物たちが、非常に小さな世界で生きているように見えてしまう。

そもそも会社なんて誰かがつくったもの。その組織の中で偉くなることが、どうして人生の最終目的になってしまうのか?

もちろん会社員として働くことを否定するつもりはない。ただどこの銀行に勤めているとか、どんな役職に就いているとか、そんな肩書きに自分の価値を預けてしまう感覚には、どうしても共感できなかった。

結局、本作の登場人物たちは、それぞれが作品のメッセージを伝えるための象徴になっているように感じる。

仕事に人生を奪われる男性。育児に自分の時間を奪われた女性。肩書きに執着する上司。そして、男性の弱さを受け止める献身的な女性。

登場人物が生身の人間として動いているというより、脚本が伝えたい教訓に従って動かされているように見える瞬間が多すぎる。

言いたいことはわかる。でも、その伝え方があざとい。

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