2020年に公開された映画『STAND BY ME ドラえもん 2』。
2014年公開の『STAND BY ME ドラえもん』に続く3DCGアニメーション映画。八木竜一と山崎貴が監督を務めた。
原作の「おばあちゃんのおもいで」「ぼくの生まれた日」「45年後…」などのエピソードを再構成し、前作で描かれた「のび太の結婚前夜」のその後となるオリジナル要素を組み合わせている。
本作も前作同様にひどい映画になってました。
ちょっと目も当てられません。
本記事ではネタバレ全開で感想考察していきます。
基本情報
作品名:STAND BY ME ドラえもん 2
原題:―
公開年:2020年
製作国:日本
上映時間:96分
監督:八木竜一、山崎貴
脚本:山崎貴
原作:藤子・F・不二雄
出演:水田わさび、大原めぐみ、かかずゆみ、木村昴、関智一、妻夫木聡、宮本信子、バカリズム、羽鳥慎一
ジャンル:アニメーション/SF/ファミリー/ドラマ
あらすじ

8月7日の誕生日。テストで0点を取り、母親に叱られたのび太は、天井裏から亡きおばあちゃんが直してくれたぬいぐるみを見つける。懐かしさを抑えられなくなったのび太は、ドラえもんとともにタイムマシンで、おばあちゃんが生きていた時代へ向かう。
成長したのび太を疑うことなく受け入れたおばあちゃんは、「のびちゃんのお嫁さんに会いたい」と願う。のび太はその願いを叶えるため、ドラえもんと未来の結婚式を見に行くが、当日になって青年のび太が突然姿を消してしまう。二人はしずかとの結婚を成立させるため、過去と未来を行き来しながら青年のび太を探し始める。
「帰ってきたドラえもん」はなんだったのか?
本作で最大級に引っかかったのが、青年のび太である。
この男、結婚式当日に逃げ出すのだ。
人生の一大イベントである結婚式から、プレッシャーに耐えられなくなって失踪する。
結婚式って自分一人のイベントじゃなくて、奥さんがいて、相手の家族がいて、友人がいて、職場の上司や同僚がいて、式を準備してきた人たちもいる。
それを全部放り出して、自分のプレッシャーだけを理由に逃げる設定はあまりにも自己中心的だ。
そして何より、この展開は前作と矛盾している。
前作のクライマックスには「さようなら、ドラえもん」「帰ってきたドラえもん」が使われており、あの話でのび太は、ドラえもんに頼らず、自分一人でジャイアンへ立ち向かった。
ドラえもんがいなくても自分はやっていけると示すために。
だからこそ、あのエピソードには意味があって、のび太が初めて大きな成長を見せる話だからだ。
そして本作の未来にはドラえもんはいない。
ならば青年のび太は、あの別れを経験したあと、ドラえもんがいなくても自分で人生を歩かなければならなかったはずだ。その時間を何年も積み重ねて大人になったわけだ。
なのに、結婚式から逃亡する姿を見て思ったのは、じゃあ前作で描いた成長は何だったんだ?ということだった。
こんな未来ののび太なら、やっぱり前作のラストに「帰ってきたドラえもん」を入れるべきではなかったと思うし、「泣けるから」という理由で使っておいて、続編を作るためにまた未熟なのび太へ戻すのはいかがなものか。
そうすると、原作の名エピソードの意味そのものが軽くなってしまう。
本当にこのシリーズ、物語全体の整合性を考えて作っているんだろうか?
結局、その場その場で原作の名場面を引っ張ってきているだけにしか見えない。
そして結婚式では、大人のび太が自分の人生を振り返る長いスピーチまで用意されていて、映画オリジナルの感動装置だけど、自分にはどうしても違和感があった。
「立派な大人になったのび太」をこれでもかと提示されても、これって本当に『ドラえもん』なのか?と思ってしまう。
フィクションにはフィクションの構造があって、製作者が考える「立派なのび太像」を押し付けることと、『ドラえもん』という作品の本質は、別なんじゃないだろうか。
藤子・F・不二雄なら、本当にこんな形で大人のび太に自己総括のスピーチをさせただろうか。
僕には制作側の「のび太はこう成長するべき」という思想が透けて見えて、最後まで乗れなかった。
エピソードをつなぎ合わせたパッチワーク映画
今回も「おばあちゃんのおもいで」「ぼくの生まれた日」「45年後…」など、藤子・F・不二雄が残した名作エピソードを再構成して一本の映画にしている。
特に「おばあちゃんのおもいで」をわざわざ結婚式の話と一緒にする必要あるのか?
藤子・F・不二雄は、それぞれの短いエピソードの中に、それぞれ違うテーマと余韻を残している。
そこへ結婚式まで持ち込み、「家族とは」「自分が生まれた意味とは」「幸せとは」みたいな一本の大きなテーマへまとめようとしていて無理やり感がすごい。
物語そのものより、「このエピソードをどうやって次につなげるんだろう?」というところばかり気になってしまった。
もはやパッチワークである。
それぞれ完成している別々の布を、映画にするために無理やり縫い合わせている。
しかも、その接着剤として使われるのが「感動」だ。
前作でも同じことを思ったけれど、本作も「原作の泣ける話を集めれば、観客は感動するだろう」という発想が透けて見えてしまう。
さらに嫌なのが、映画側がそれらを一本につなぐことで、新たな説教臭いテーマまで乗せてくるところだ。
原作はもっとシンプルでそれぞれの話を読んで、何を感じるかは読者に委ねられている。
でも本作は、「こう感じてください」「こういう人生が素晴らしいんです」「ここで泣いてください」という制作側の意図があまりにも強い。
だから感動の押し売りにしか見えない。
しずかは妻ではなく、母親では?
そして本作で一番人物描写に違和感があったのが、しずかだった。
結婚式当日に新郎が消えた。
普通ならブチ切れ案件で結婚取りやめにしてもいいレベルだ。
ところが、しずかは驚くほど怒らない。
最終的に戻ってきたのび太が、「僕は僕が幸せになるために戻ってきた」というような、自分中心な発言すらも受け止め「よくできました」と返す。
いや、母親かよ。
妻が夫へ言っているというより、ダメな息子がようやく一つ成長したときに、母親が頭を撫でながら褒めているような構図にしか見えねぇ。
ここは「おばあちゃんのおもいで」で無条件にのび太を受け入れてくれる優しいおばあちゃんとリンクさせてるのだろうか?
それは祖母と嫁は分けて考えるべきだし、のび太をひたすら甘やかしているだけに過ぎない。
しずか本人にも当然、怒りや不安や傷つきがあるはずだし、そこを描かないのは人間として薄っぺらさもある。
しずかに与えられている役割は「のび太の成長を認めてあげる女性」になっており、のび太がどれだけ自己中な行動をしても、無条件に受け入れる姿は自己犠牲的で従属的な女性像に見える。
さらに今回のドラえもんに至っては「のび太が困ったから便利な道具を出す係」にしか見えない。
結局この映画で僕が見せられたのは、のび太が甘え、逃げ、周囲を振り回し、それをドラえもんとしずかが何とかしてあげる姿だった。
それで最後に「成長しました」と言われても、全然納得できねぇんだよ。
ストーリーの不自然さ、前作との矛盾、のび太への苛立ち、しずかの古臭い人物描写が挟まってくるから感動どころかイライラしかしない。
酷すぎた前作の感想はこちらから






