2022年に公開された映画『百花』。
『君の名は。』を大ヒットさせた映画プロデューサーとしても知られる川村元気が自身の同名小説を映画化し、長編映画監督デビューを果たした作品。
期待値が高かったが、結果的に「爆死」といわれるほど客が入らなかった作品。
自分が思うに、彼が手掛けてきたエンタメチックな作品とはかけ離れていたことが原因だとは思うが、鑑賞していてそれなりにはメッセージは伝わりました。
本記事ではネタバレ全開で感想考察していきます。
基本情報
作品名:百花
原題:―
公開年:2022年
製作国:日本
上映時間:104分
監督:川村元気
脚本:平瀬謙太朗、川村元気
原作:川村元気『百花』
出演:菅田将暉、原田美枝子、長澤まさみ、北村有起哉、岡山天音、河合優実、長塚圭史、板谷由夏、神野三鈴、永瀬正敏
ジャンル:ドラマ/家族
あらすじ

レコード会社で働く葛西泉は、妻・香織との間に新しい命を授かり、家庭を築こうとしていた。一方、母・百合子は認知症を患い、少しずつ記憶を失い始めていた。
大晦日、実家へ帰った泉は、近所の公園で「半分の花火が見たい」とつぶやく百合子を発見する。母の介護と向き合う中、泉は幼い頃に百合子から置き去りにされた過去を思い出していく。
やがて百合子の記憶が薄れていく一方で、泉の中では封印してきた母との記憶が鮮明になっていく。「半分の花火」という言葉に隠された過去をたどりながら、二人は失われていく記憶と親子の関係に向き合っていく。
タイトルの意味は?
映画『百花』のタイトルには、「花のように儚く美しいけれど、最後に残る百の記憶」という意味が込められている。
花はきれいに咲いてもやがて枯れて朽ちていってしまう。
認知症によって徐々に失われていく百合子の記憶も、同じように「儚く一瞬の美しさ」を持っている。
「百」とは「最後に心に残った(こぼれ落ちなかった)百個の記憶や愛」を象徴しています。
けど、百もあった?と疑問に思うけどあくまでそれは美しい記憶、それらを「百の記憶」として表現しているだけです。
ちなみに百合子の名前にも「百」の文字が使われていて、これは確信犯でしょう。
百合子目線の認知症が怖い
原田美枝子というと、自分の中では『北の国から』のテレビシリーズで純の先生を演じていた頃の印象が強い。
感情をあまり表に出さないクールビューティーな先生で、妙に透明感のある女優だった。
そこから長いキャリアの中でいろいろな作品を見てきたけれど、『百花』で久しぶりに見た原田美枝子は、当然ながらだいぶ年齢を重ねている。そっかぁ、認知症の役をやるようになられましたか。
本作で原田美枝子が演じる百合子は、認知症によって少しずつ記憶を失っていく。
そしてこの描き方がかなり怖い。
スーパーの中を子どもが走り回っていて、百合子は何度も「危ないよ」と注意する。知り合いを見つけたと思って追いかけていけば、現実には知り合いは存在せず、実際は万引き犯として捕まってしまう。
本人からすれば、すべて自然な行動だからこそ怖い。
そして百合子は、やがて息子・泉のことまで分からなくなっていく。
それでもすべての記憶が均等に消えるわけではなくて、ピアノは弾けたりするのだ。
これがポイントで百合子はかつてピアノ講師をしていて、その生徒だった大学教授に惚れて息子の泉を放置して同棲していた過去を持つ。
「これは忘れたのに、これは覚えている」というあやふやさが、むしろものすごく人間らしいが、彼女のなかにはどこかまだ大学教授の存在があるのかなみたいな、泉が複雑な表情を浮かべるシーンが印象的だった。
記憶ってパソコンのデータみたいに古い順から削除されるわけじゃない。感情や身体に染み込んだものだけが、妙な形で残ったりする。
本作はそういう認知症の内側を、説明ではなく映像で見せてくる。
ニグレクト
今回、自分が最初に勘違いしていたところがある。
永瀬正敏演じる浅葉洋平は、泉の父親ではない。
百合子が惹かれた大学教授であり、子供の泉を約1年間も置き去りにしていたのだ。これ普通に考えればとんでもない話だよね。
子供って親が絶対だからね。その親からニグレクトされれば、「自分は捨てられたんじゃないか」「母親に愛されていなかったんじゃないか」と思うのは当然だ。
母親として大きな過ちも犯しているが、百合子は泉を愛していなかったわけではない。
さらに認知症が進んだ百合子は、息子に対してまるで恋人へ接するように手をつなごうとするシーンあがって最初めちゃめちゃ違和感があったんだけど、どうやら泉を浅葉と混同していると解釈すると納得できる。
そして泉はその手をちゃんと拒否するんです。母親が自分を置いて浅葉のもとへ行った過去。その傷や嫌悪感は、泉の中では消えていない。
皮肉なのは、百合子がその記憶をどんどん失っていくのに対して、泉の方は逆にどんどん思い出していくことだ。
傷つけた側は忘れていく。
傷つけられた側は思い出していく。
百合子は「ごめんね」と繰り返す。
おそらく泉に対しての「ごめんね」なんだと思う。
でもその謝罪の理由すら本人の中から少しずつ消えていく。
この「母は忘れ、息子は思い出す」という逆方向の構造が、本作で一番興味深いところの一つだった。
忘れるからこそ人間
本作のテーマを象徴しているのが、「半分の花火」。
百合子は何度も「半分の花火が見たい」と言う。
でも泉には何のことか分からない。
香織が調べて湖面に映る花火を探してみるけれどそれではないようだ。
百合子が見たかったのは、幼い泉と一緒に見た「建物に遮られて、半分しか見えなかった花火」だったのだ。
そして泉自身もその思い出を忘れていたということ。
健康な人間だって普通に忘れる。
楽しかったことも、辛かったことも、どんどん薄れていく。
でも再び半分の花火を見た瞬間、泉の中に当時の感情が一気に戻ってくる。
そこで思い出すのは、母親に置いていかれた記憶ではなく、母親と楽しく過ごしていた自分。
ちゃんと愛されていた時間もあった。そこなんですよね。
そしてこの映画にはもう一つ面白い対比がある。
泉の仕事では、大量のデータを読み込ませて架空のAI人物を作ろうとしている。
記憶をどんどん足していけば人間らしくなるはずだったが、情報を入れれば入れるほどそのAIは逆に「何者でもない」存在になっていく。
この辺はわかりやすいメタファーになってました。
全部覚えていることが本当に人間らしいのだろうか?
全部を昨日のことのように鮮明に抱え続けていたら、生きていけないことだってある。
記憶を失うことには悲しさがあるが、同時に救いもある。
その不完全さこそが、人間なのかもしれない。







