2021年に公開された映画『ボイリング・ポイント/沸騰』。
本作は、フィリップ・バランティーニ監督が2019年に発表した同名短編映画を長編化した作品で、高級レストランの一晩を、約90分にわたるワンカット撮影で描く。
『ディナーラッシュ』みたいな映画かと思ったら全然違う作風だった。
人によって大きな展開があるわけではないので「つまらない」という感想を抱く人もいるだろうが、レストランに近い自分にはめちゃめちゃリアルな風景でした。
本記事ではネタバレ全開で感想考察していきます。
基本情報
作品名:ボイリング・ポイント/沸騰
原題:Boiling Point
公開年:2021年
製作国:イギリス
上映時間:95分
監督:フィリップ・バランティーニ
脚本:フィリップ・バランティーニ、ジェームズ・カミングズ
原作:―
出演:スティーヴン・グレアム、ヴィネット・ロビンソン、アリス・フィーザム、レイ・パンサキ、ハンナ・ウォルターズ、マラカイ・カービー、ジェイソン・フレミング
ジャンル:ドラマ/スリラー
あらすじ

クリスマス直前の金曜日。ロンドンの高級レストランでオーナーシェフを務めるアンディは、遅刻して出勤した早々、保健所の査察によって店の評価を下げられてしまう。
さらにその夜は、元上司で現在は有名シェフとなったスカイが著名なグルメ評論家を連れて来店。厨房ではスタッフ同士の不満が噴き出し、客席ではさまざまな要求やトラブルが発生する。アンディ自身も別居中の家族、飲酒、薬物、金銭問題を抱え、次第に精神的な余裕を失っていく。
次々と起こる問題を処理しながら営業を続ける厨房とホール。しかし小さなミスと人間関係の軋轢が積み重なり、店全体は文字通り“沸騰点”へと近づいていく。
逆『グランメゾン東京』――飲食店のフラストレーションを全部詰め込んだ映画
『グランメゾン東京』ってめっちゃめっちゃ飲食業界の理想像を描いた作品だったな。
料理人たちが一つのチームになって料理を作り、みんなでミシュランの星を目指していく。
ある意味ではキラキラしたレストランの理想像を描いた作品だとすれば、本作が見せるのはその真逆。
保健所の査察から始まり、遅刻するスタッフ、サボるスタッフ、発注ミス、客からのクレーム、スタッフ同士の人間関係、有名シェフや評論家の突然の来店まで、とにかく飲食店で起こり得るフラストレーションを全部この一晩に詰め込んでいる。
しかも全編ワンカット。カメラが厨房からホールへ、人から人へと移動しながら営業を追い続けるため、映画というより舞台をそのまま目の前で見ているような感覚。
編集による休憩がないので、一つの問題が終わる前に次の問題が起き、そのストレスがずっと蓄積していく。
例えばラム肉をピンク色に仕上げれば、「焼けていない」と言う客がいる。もちろん提供状態そのものが適切かどうかは料理によって違うが、肉の火入れを知らない客から「生じゃないか」と言われて対応しなければならないこと自体、飲食店では十分ありそうな話に見える。
この映画、本当に細かいところまで嫌になるほどリアルだった。
「いつでも100%でいろ」は理想論
特に興味深かったのが有名シェフのスカイが評論家を連れて店へやって来るくだり。
アンディは「来るならもっと早く教えてくれれば準備したのに」と言うが、責任者はそれに対して「いつでも100%の準備をしておくのが当然だろう」という理屈が返ってくる。
正論に聞こえるが、自分はこの現場側の言い分がものすごくよく分かる。
もちろん普通の客だから手を抜いていいという話ではないが、全員に100%の仕事をするのは当然。
ただし、全員にまったく同じ最高条件を用意できるかというと、それは別の話だと思う。
食材は工場で均一に作られた製品ではない。
例えば寿司屋がマグロを買ったとしても、その中には明らかに状態のいい部分がある。
それを誰に出すのか。
大切な常連や友人、店に大きな影響を与える人が来たら、そこに力が入るのは人間として自然なことだと思う。
有名なインフルエンサーや評論家が来れば、店の評価そのものに影響する可能性もある。だから「もっと早く教えてくれ」というシェフの感覚は、自分には非常にリアルに感じられた。
200ポンドのワインを注文した男性客の場面も同じだった。
この男性はスタッフにかなり嫌な言い方をする。ただワインによっては抜栓後に空気に触れさせることで香りや味わいが開くこともあるし、ボトルを頼んだ客が「自分たちのペースで注ぎたい」と思う気持ちも分かる。
映画ではあたかも客側だけが嫌な人間であるようにも見えるが、自分は「いや、この価格帯のワインを扱う店なら、サービス側ももう少し分かっていていいんじゃないか」と思った。
さらに、明らかに仕事をサボっているスタッフもいる。
外から見れば「じゃあクビにすればいい」で終わる。でも飲食店は人が足りなければ、それすら簡単にはできない。1人切れば、その穴を残った人間が埋めなければならない。仕事ができない人間でも、「いないよりはマシ」で抱えざるを得ないことがある。
この作品は、正論だけなら簡単に解決できそうな問題が現場ではまったく簡単ではないことをものすごく細かく描いている。
だから凄くリアルなのだ。
レストランは人を幸せにもするし、一つのミスで命にも関わる
主人公アンディ自身も決して完璧な人間ではなく、遅刻するし、発注を間違えるし、酒臭いし、私生活も崩れている。
周囲のスタッフだけが問題なのではなく、本人にもかなり問題がある。
そのアンディの沸点が営業が進むにつれて少しずつ上がっていく。
そして最後にはアンディ自身が倒れてしまう。酒や薬物を含め、彼がそれまで抱えてきたさまざまな問題が示されているが、ここで重要なのは原因を一つに決めることではないと思う。
この一晩そのものが、すでに限界だった。
レストランは一人の天才シェフがいれば成立する場所ではない。
料理を作る人がいて、サービスをする人がいて、皿を洗う人がいる。それぞれが自分の生活、自分の感情、自分の問題を抱えながら、一つのチームとして同時に動かなければならない。
だから料理以前に人間関係がものすごく難しい。
そしてこの映画を見ていて改めて感じたのが、レストランという場所の特殊さだった。
作中にはプロポーズをしようとする客がいる。つまりレストランは、人の人生にとって大切な瞬間を作り、人を幸せにする場所でもある。
その一方で、ナッツアレルギーへの対応を一つ間違えれば、人の命に関わる。
ただ食事を出しているだけではない。
人を幸せにする場所でありながら、一つのミスが取り返しのつかない結果にもつながり得る。その両方が同じ空間に存在している。
この映画には、大きなどんでん返しも、最後にすべてが解決するようなカタルシスもない。淡々とストレスが溜まっていくだけなので、「何も起きない映画で面白くない」と感じる人がいるのも分かる。
ただ、自分は客としてレストランへ行く機会が多く、シェフたちとも日常的に話をする。そのため、彼らが普段どれだけ細かいことに神経を使っているのかも多少は知っている。
だからこそ、この映画はものすごくリアルだった。
レストランを一晩、何事もなく営業させること自体が、実はものすごく大変なことなのだ。
この映画を見て、一番強く感じたのはそこだった。






