2022年に公開された映画『宮松と山下』。
東京藝術大学名誉教授の佐藤雅彦、関友太郎、平瀬謙太朗による監督集団「5月」の長編映画第1作目。
記憶を失った男がエキストラ俳優として「主人公ではない人生」を何度も演じながら、自分自身の過去を取り戻していく姿を描く。主演の香川照之にとっては、約14年ぶりとなる単独主演映画。
本作が公開された2022年は、主演の香川照之に関する不祥事が大きく報じられた年でもあった。
確か報道が出たのが8月頃で、その数か月後に本作が公開されたこともあって、作品そのものとは別の意味でもかなり注目された映画だったと思う。
自分は基本的に、俳優の不祥事と俳優としての実力は切り離して考える方だ。
もちろん被害者がいる以上、不祥事そのものをどうでもいいと言うつもりはないが、それを理由に実力のある俳優が作品から永久に消えるべきなのかというと、自分はそうは思わない。
性格の悪い料理人でも、作る料理がめちゃくちゃうまければ、その料理の評価はまた別の話だと思っている。それと同じで、自分は香川照之という俳優の実力をかなり認めており、本作もやはり「おっ」と思わせてくれるような作品だった。
本記事ではネタバレ全開で感想考察していきます。
基本情報
作品名:宮松と山下
原題:―
公開年:2022年
製作国:日本
上映時間:85分
監督:関友太郎、平瀬謙太朗、佐藤雅彦
脚本:関友太郎、平瀬謙太朗、佐藤雅彦
原作:―
出演:香川照之、津田寛治、尾美としのり、中越典子
ジャンル:ドラマ
あらすじ

タクシー会社の寮で暮らす宮松は、過去の記憶を失っていた。信楽高原鐵道の保守点検をしながら、映画やテレビではエキストラ俳優として時代劇で斬られ、ヤクザ役で撃たれるなど、毎日のように別人を演じている。
ある日、かつて一緒にタクシー運転手として働いていた谷が撮影現場を訪ねてくる。そこで宮松は、自分の本名が「山下陽児」であること、そして実の妹・藍がいることを知らされる。
妹夫婦と再会し、失われた人生へ戻ろうとする山下。しかし、何気ない日常をきっかけに少しずつ過去の記憶が蘇り始める。やがて、自分が記憶を失う原因となった出来事や、それ以前の家族との関係にも向き合うことになる。
現実なのか役なのか――観客まで騙す「間」
香川照之演じる宮松はエキストラ俳優として生活している。
最初は江戸時代の時代劇で斬られるんだけど、ここは明らかに「撮影」だと分かる。
ところがその後、日常に戻ったのかと思ったら、今度はいきなりヤクザに拳銃で撃たれる。
「あれ?」
と思ったら、これもまた撮影だった。
本作はこのように、「今見ているのは宮松の現実なのか、それとも役として演じている世界なのか」という境目を意図的に曖昧にしてくる。
同棲しているのかと思った綺麗な女性との場面もそうだった。
生活感のある会話をして、妊娠したような話まで出てくるから、てっきり宮松の私生活なのかと思うが、直後に「はい、カット」となる。
こういうことを繰り返されると、観客の側もだんだん疑い始めるが、それこそが本作の狙い。
そもそも宮松が何者かに頭を殴られて記憶喪失になったという設定そのものも、本当なのか?これも役なんじゃないのか?
そう思わせてくるわけだ。
この構造自体が自分は結構好きなタイプの作品でどこかデヴィッド・リンチ作品を見ているときのように、現実と虚構の境界が少しずつ怪しくなっていく。
本作はテンポがいい映画ではない。
85分程度なのでサクッと見られる作品ではあるけれど、会話と会話の間だったり、人物をただ映している時間だったり、かなり「間」を取る作品だ。
普通なら「テンポが悪い」と感じる部分なのかもしれないが、自分はこの間が結構好きだった。
その時間に観客が考えられるからだ。
これは現実なのか。
また役なのか。
宮松は本当に記憶喪失なのか。
この人はそもそも何者なのか。
映画側が全部説明するのではなく、少し時間を渡して観客に考えさせる。
だから1.5倍速で観るのはやめましょう。
エキストラのシュールさ
構造設定も面白いんだけど、エキストラという存在に向き合う視点もなかなかユニークだ。
エキストラたちが時代劇のカツラや着物姿のまま食券機で食券を買って昼食を取る場面なんかも面白い。
撮影現場では、いちいち衣装もメイクも全部取って昼飯を食べるわけではないんだろう。
そう考えれば何も不思議ではない。
でも江戸時代の人間みたいな格好をした集団が、現代の食券機の前に並んでいる絵はものすごくシュールだ。
さらに本番前、サラリーマンの同僚役を演じる二人の会話が全然噛み合っていない場面も印象に残った。
「それ、どこの時計ですか?」
「いや、分からなくて」みたいな、全く会話が続かない。
現実ではめちゃくちゃ気まずい他人同士なのである。
ところが、「はい、スタート」と撮影が始まった瞬間、急に仲のいい会社の同僚になる。
さっきまで何の関係性もなかった二人が、カメラが回った瞬間だけ親しい人間関係を成立させる。
なるほど、撮影前はこんなこともあるよなぁと考えさせられる。
記憶を取り戻しても演じ続ける
途中まであれだけ「現実なのか役なのか」を疑わせてくるから、最後には「実は記憶喪失そのものも役でした」みたいなどんでん返しが来るのかと思っていたが、結果から言えば、宮松の記憶喪失は本当だった。
宮松の本名は山下陽児。
血のつながっていない妹がおり、その妹の夫との間に過去のトラブルがあり、その暴力が記憶喪失につながったのだ。
どちらにどこまで原因があったのかは簡単には割り切れないが、宮松にとって戻ってきた過去が、決して心地いいものではなかったことは分かる。
そして興味深いのは記憶が戻ったのに宮松は「記憶が戻っていないふり」を続ける。
つまりここで初めて、本当の人生の中で演技を始めるのである。
なぜそんなことをするのか。
自分には、これまでの彼の性格を見ているとものすごく理解できた。
この人、自分で目的地を決めることがあまり好きじゃない。
タクシー運転手という仕事についても、客が行き先を決めてくれるから自分で目的地を決めなくていい。
餃子の皮を包むような、決められた手順を繰り返す作業にも馴染む。
決められた軌道を動く仕事もそう。
要するに彼は、型にはまったことを淡々と繰り返す方が楽な人間なのだ。
だからエキストラという仕事も性格に合っている。
自分で物語を動かす必要もない。
渡された役に従って、決められた場所に立ち、決められた動きをして、必要なら斬られたり撃たれたりすればいい。役をこなせば、それで終わる。
人生までその延長にしてしまったのが、記憶を取り戻した後の宮松なんじゃないだろうか。
過去の自分へ戻って、自分の問題と真正面から向き合うよりも、「記憶のない宮松」として今まで通り生きた方が楽。だから記憶が戻っていないふりをする。
「自分とは何者なのか」を問う映画
そして本作において、エキストラという設定がなぜこれほど重要なのか。
宮松は役の中で何度も死ぬ。
時代劇で斬られ、拳銃で撃たれる。
また別の作品へ行けば、別の人間として生きている。
何度も死んで、何度も再生する。
一度自分ではない誰かになって、その人間として生き、役が終わればまた元の自分に戻る。
この「その他大勢」という立場が、宮松という人間そのものとものすごく重なって見えた。
でもよく考えたら、その問いは宮松だけの話じゃない。
高校の頃の友達と会ってるときの自分と、大学の頃の友達と会ってる時の自分、社会人になったときの知り合いと会ってるときの自分は果たして同じだろうか?
それぞれの立場や関係性で自分のキャラって微妙に変わってたりしません?
自分とは何なんでしょうね。




