2025年に公開された映画『敵』。
本作は筒井康隆の同名小説を吉田大八監督が映画化した作品。長塚京三が主人公・渡辺儀助を演じ、瀧内公美、河合優実、黒沢あすからが出演する。
妻に先立たれた老人の静かな日常が、老い、孤独、病、妄想によって徐々に崩れていく様子を、全編モノクロ映像で描いている。
本記事ではネタバレ全開で感想考察していきます。
基本情報
作品名:敵
原題:敵
公開年:2025年
製作国:日本
上映時間:108分
監督:吉田大八
脚本:吉田大八
原作:筒井康隆『敵』
出演:長塚京三、瀧内公美、河合優実、黒沢あすか、松尾諭、松尾貴史
ジャンル:ドラマ、ミステリー
あらすじ

妻に先立たれた75歳の元大学教授・渡辺儀助は、一人暮らしをしながら質素で規則正しい生活を送っている。講演を引き受け、料理を作り、酒を飲み、自分の貯金が尽きるときには自ら人生を終えると決め、すでに遺言も書き終えていた。
そんなある日、儀助のパソコンに「敵」に関する奇妙なメールが届き始める。北から敵がやって来るという不穏な知らせを無視し続ける儀助だったが、やがて亡き妻の姿を見たり、現実とは思えない出来事を経験したりするようになる。
規則正しかった日常は少しずつ崩れ、現実と夢、記憶と妄想の境界も曖昧になっていく。そして儀助は、自分へ迫ってくる「敵」と向き合うことになる。
老いと死を意識しながら、それでも「ちゃんと生きている」
長塚京三演じる渡辺儀助は、妻に先立たれ一人で質素な生活を送っている。講演料は10万円を一つの基準にしてそれ以下には下げたくない。
遺言もすでに書き終えており自分の人生が終わりへ向かっていることをかなり現実的に受け入れている人物である。
「残高に見合わない長生きは悲惨だから」というセリフも実に生々しい。長生きを無条件にめでたいものとして捉えるのではなく自分の残された金と寿命を冷静に計算している。
感傷的に死を考えるのではなく、彼は最後まで非常にロジカルである。
一方で、この老人は決して生活を投げてはいない。
鮭やハム、卵焼きといった朝食を自分で作り、茶漬けを食べ、一人暮らしなのに焼き鳥まで自分で串打ちする。
全編モノクロなのにこの料理のシーンが実に美味しそうに見えるから不思議だ。
近所の男とのやり取りから、自分も年を取って臭くなっているのではないかと意識すれば、すぐにシャワーを浴びる。
まだ「ちゃんとしていたい」という意識があるのがわかる。
料理のレパートリーも多く、生活を整えている姿を見ていると、この人はちゃんと生きているんだなと思えて、個人的にはかなり好印象だった。
そこへ鷹司靖子という女性が性的な対象として入り込み、彼女を想像して自慰をする場面まで出てくる。急に生々しくなるがそれもまた生きているということなのだろう。
さらに儀助は由美に騙されて300万円を失ってしまう。77歳の孤独な老人が若い女性に心を許し金を奪われるのだ。
これ、めちゃめちゃカッコ悪いんだけど、彼は騙されたことに対してめちゃめちゃカッコつけるんです。
ワンちゃん狙ってたんじゃないかな。
死を意識していても食欲も性欲もなくなったわけではない。本作は老人の生活をきれいごとだけで包まず人間としての欲望までそのまま映している。
『裏窓』のように老人の日常を覗き続ける不思議な映画
劇中の会話では、ヒッチコックの『裏窓』について語られる。
『裏窓』は主人公が窓越しに他人の生活を覗く映画だが、本作を見ているこちらも、まさに渡辺儀助という老人の何気ない毎日を覗いているような感覚になる。
料理を作り、食べ、酒を飲み、風呂に入り、人と会話する。物語としては本当に大きなことが起きない。かなり退屈な時間もある。それなのに不思議と見るのをやめようとは思わない。
その理由の一つがパソコンへ届く「敵」に関する謎のメールである。見た目だけなら完全に迷惑メールか詐欺メールのようで儀助自身もゴミ箱へ捨てる。
しかしそれが何度も届き「敵は北から来る」といった不穏な内容が、あまりにも平凡な日常の隙間へ少しずつ入り込んでくる。
そこから病気を思わせる描写や悪夢、幻覚のような場面も増え始め、規則正しく整えられていた生活が、少しずつ壊れていく。
しかし何が起きているのかはなかなか分からない。
「敵って一体何なんだ」「この映画はどこへ着地するんだ」と思わせる匂わせだけが続き、退屈なのに先が気になってしまう。
派手な事件ではなく疑問そのものを吸引力にしているところが興味深い。
現実と妄想が崩れ、「敵」の正体が見えてくる
後半になるほど現実と妄想の境界は完全に曖昧になっていく。
冬になり、鷹司靖子が儀助の家へやって来て一緒に鍋を食べる。そこへインターホンが鳴り以前の編集者までやって来る。
さらになぜかすでに亡くなっている妻・渡辺信子までその場におり、4人で普通に鍋を囲むというシュールなシーン。
後半になるほど儀助の妄想の中へ観客自身も入り込んでいくような作りになっている。
そして最後、儀助は「敵」に撃たれたような妄想の中で死んでいく。しかし実際に誰かに撃たれたわけではなく、結局北から攻めてくると言われ続けた「敵」とは、実在する何者かではなく、老いや病気、そして死そのもののメタファーだったのだ。
前半の儀助は金も生活も死ぬ時期さえも自分なりに管理しようとしていたが、最後にやってくる死だけは管理することができない。
整然とした日常を送っていた人間が、自分ではコントロールできない「敵」に徐々に飲み込まれていくわけだ。
ラストについて
儀助は「春になればまたみんなに会える」と思いながら死んでいく。
そして実際に春になり、遺言によって家を譲り受けた若い親戚が双眼鏡でその家を見上げると一瞬だけ儀助の姿が映る。
「春になればみんなに会える」という願いが、死後の葬式という形で実現したという皮肉。
儀助自身はもういない。しかし彼が死んだことで人々が再び集まり家や記憶が残されていく。最後に映る儀助も、幽霊というより、その家に残った気配や記憶のように感じた。
物語自体には大きな展開がほとんどない。しかし「敵」という言葉だけを先に置き、平凡な生活の中へ不穏なメールや幻覚を少しずつ混ぜていくことで、最後まで見せてしまう力がある。
メタファーをかなり効かせた作品であり、見せ方や物語への着手が非常にうまいと思った。
そしてなぜ全編モノクロなのかという点も印象に残る。
それはあえて白黒にすることで、現実味を少し薄めているのではないかと感じた。
カラーであれば、パソコンやスマートフォンが映った瞬間に「現代の映像だ」と視覚的に固定されてしまう。
しかしモノクロだと一瞬昔の作品のようにも見える。その画面の中に現代のパソコンやスマホが出てくることで、妙な時間のズレが生まれる。
さらに後半では、「現実なのか、夢なのか、妄想なのか」という境界そのものが崩れていく。
最初から色を奪っておくことで、観客側にも現実と虚構の境界を曖昧に感じさせているのではないだろうか。
もちろんこれは僕なりの解釈だが、モノクロであること自体が、この映画の一つのメタファーだったように思える。
観終わると、老人の日常、老い、孤独、欲望、妄想、死がすべて『敵』というタイトルへつながっていたことに気づくのだ。





