【映画】バケモノの子(2015)|ひどい?王道の師弟物語で本当に伝えたいことを解説します【ネタバレ考察】

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映画『バケモノの子』をイメージした画像 アドベンチャー

2015年に公開された映画『バケモノの子』。

本作は細田守が監督、脚本、原作を務めた長編アニメーション映画。

本作を批判している人のレビューを見てると主に「後半の急展開や世界観の破綻」と「一郎彦の行動への違和感」の2点を理由に挙げることが多い。

確かに後半のストーリー展開はやや急ぎ足で現実世界でのバトルものへ急カーブするため、設定がとっちらかって唐突すぎると感じる人もいるのは理解できる。

とは言え本作の本当に伝えたかったことを理解するとあまりその辺は気にならなくなってくる。

本記事ではネタバレ全開で感想考察していきます。

基本情報




作品名:バケモノの子
原題:The Boy and the Beast
公開年:2015年
製作国:日本
上映時間:119分
監督:細田守
脚本:細田守
原作:細田守
出演:役所広司、宮﨑あおい、染谷将太、広瀬すず、大泉洋、リリー・フランキー
ジャンル:アニメーション、ファンタジー、アドベンチャー

あらすじ




映画『バケモノの子』をイメージした画像

母親を亡くし、親戚に引き取られることを拒んだ9歳の少年・蓮は、渋谷の街を一人でさまよっていた。

そんな蓮の前に現れたのが、バケモノの熊徹である。熊徹の後を追った蓮は、人間界とは異なるバケモノたちの世界「渋天街」へ迷い込む。

一人でも生きていける強さを求めていた蓮は、熊徹の弟子となり、九太という名前を与えられる。熊徹と九太は何をするにも衝突してばかりだったが、修行と共同生活を続けるうちに、師弟でありながら親子のような関係を築いていく。

それから8年。17歳になった九太は再び人間界へ戻り、女子高校生の楓と出会う。勉強を教わり、人間としての生き方に触れた九太は、自分がどちらの世界で生きるべきなのかを考え始める。

熊徹と九太は、お互いがお互いの師匠である




本作のメインとなるのはやはり熊徹と九太の師弟関係である。

不器用な師匠と反抗的な弟子という、非常に王道の組み合わせだ。

熊徹自身、親にも師匠にも育ててもらえずすべてを自分一人で身につけてきたがゆえに何をどう教えればいいのか分からない。

九太に対しても「俺の動きを見て覚えろ」としか言えない。九太からすれば当然それで分かるわけがない。二人は毎日のように衝突し、喧嘩を繰り返す。

しかし九太が熊徹の動きをまねることで、少しずつ熊徹の強さを理解していく。そして熊徹も、九太に教えることを通じて、他人と向き合う方法を覚えていく。

熊徹が九太を育てているだけではなく、九太もまた熊徹を育てている。

つまり二人はお互いがお互いの師匠であり、お互いがお互いの弟子である。この一方通行ではない師弟関係が物語に非常に厚みを持たせている。

また熊徹の周囲には多々良と百秋坊がいる。多々良は口は悪いが熊徹と九太のことをよく見ており、百秋坊は二人の間を落ち着かせる理性的な相談役である。

熊徹、多々良、百秋坊の三人が九太を囲むことで、血のつながりはないが、家族のようなバランスが生まれている。この疑似家族的な描写も、本作の温かさにつながっていた。

人は心の闇をどう使うのか




本作のテーマは「強くなるとは何か」というだけではない。むしろ人間が持っている心の闇とどう向き合うかという話だったように思う。

人間は誰しも怒りや憎しみ、嫉妬や孤独といった負の感情を持っている。その感情を持つこと自体が悪いわけではない。

問題はその心をどう使うかである。

強さは人を守るためにも使えるし、人を傷つけるためにも使える。どれだけ大きな力を持っていても、その使い道は本人の心によって変わってくるのだ。

一郎彦も九太も、心の中に闇を抱えている。

しかし九太には熊徹や楓、多々良、百秋坊たちとのつながりがあった。自分一人では抱えきれない心の闇を、他者との関係によって受け止めることができた。

一方の一郎彦は、自分の正体に対する不安や孤独を誰にも打ち明けられず、闇に支配されていく。

だから本作が伝えようとしているのは、闇を完全になくすことではないと思う。

自分の中にある闇を認めた上で、それにとらわれず自分自身を持ち続けること。すなわち、その大切さと難しさが、この映画のテーマではないか。

熊徹が最後に九太の心の剣となる展開も、このテーマにつながっている。九太は一人で強くなったのではない。熊徹から受け取ったものを自分の心の中に残し、それを自分の力として使う。

強さとは、相手を倒す力ではなく、自分の闇に支配されないための力なのだろう。

ご都合主義




九太、本名の蓮は、9歳から17歳までの8年間をバケモノの世界で過ごしている。

高校生の時期もずっと渋天街にいたわけで、現実的に考えれば急に人間社会へ戻って適応できるはずがない。

それまで学校教育をほとんど受けていなかった九太が、楓と一緒に勉強を始め、大学進学まで考えるようになる。この展開は確かに正直かなりご都合主義だと思う。

8年間行方不明だったのだから、戸籍はどうなっているのか、住民票を復活させるためにどのような手続きが必要なのか、本人確認はどうするのかといった疑問も出てくる。

身分証明書も住所履歴もない少年がすんなり人間社会へ戻れるとは思えない。

ただここをつべこべ言うのも違う気がする。

そもそもバケモノの世界が存在し、人間とバケモノが普通に日本語で会話している映画である。

バケモノの存在を受け入れておきながら、戸籍や住民票の手続きだけに厳密な現実性を求めるのは、さすがに野暮だろう。

行政手続きを一つひとつ描いていたら、物語が完全に役所ドラマになってしまう。

人間界への適応が簡単すぎるという違和感はある。それでもここはフィクションなのだから目をつぶりませんか、皆さん。

エンディングはまたミスチル




確かにいきなりバトルもにギアが変わるので違和感こそあるものの、クライマックスの渋谷・センター街での決闘はなかなか見応えがあった。

現在のバスケットボールストリートを中心に、実際の渋谷の街並みが細かく描かれている。当時存在していたヤンバル食堂なども登場し、東京に住んでいる人間からすると非常に身近な景色である。

普段見慣れている場所で、巨大なバケモノとアニメのキャラクターたちが戦う。日常の風景が突然非日常へ変わる面白さがあり、本作の大きな見どころになっていた。

しかしエンディング曲がまたもやMr.Childrenなのが気になる。

もちろん、Mr.Childrenそのものが悪いわけではないが、一時期の日本映画のエンディングが全部ミスチルなのではないかと思うくらい、やたらとMr.Childrenが使われていた。

しかもどれも似たようなバラード調である。

とりあえず最後にミスチルを流しておけばいいだろという風潮が正直嫌。

批判している人の言い分も理解できるが、本作は誰しもが持つ心の闇とどう向き合い、自分の力を何のために使うのかというのがテーマである。

熊徹と九太が互いに育て合う姿を通して、人間の強さと弱さを描いた物語である。

多少のご都合主義はあるものの、熊徹と九太の師弟関係は非常に魅力的であり、家族や成長について考えさせられる作品だった。

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