2005年に公開された映画『メゾン・ド・ヒミコ』。
『ジョゼと虎と魚たち』の犬童一心が監督、渡辺あやが脚本を務め、オダギリジョーと柴咲コウが主演を務めたヒューマンドラマ。
公開当時に一度鑑賞してるんだけど改めて鑑賞してみて、なんかこの20年で日本もガラッと変わったんだなと感じさせる映画でした。
本記事ではネタバレ全開で感想考察していきます。
基本情報
作品名:メゾン・ド・ヒミコ
原題:House of Himiko
公開年:2005年
製作国:日本
上映時間:131分
監督:犬童一心
脚本:渡辺あや
原作:―
出演:オダギリジョー、柴咲コウ、田中泯、西島秀俊
ジャンル:ドラマ/ヒューマンドラマ

母と自分を捨て、ゲイとして生きることを選んだ父・卑弥呼を許せずにいる沙織。ある日、卑弥呼の恋人・岸本春彦が彼女のもとを訪れ、卑弥呼が末期癌であることを告げる。
春彦は卑弥呼が作ったゲイのための老人ホーム「メゾン・ド・ヒミコ」で、高額なアルバイトをしないかと沙織を誘う。父への複雑な感情を抱えながら働き始めた沙織は、そこで暮らす個性的な人々や春彦と接するうちに、これまで知らなかった父の姿や、それぞれの生き方に触れていく。
2005年という時代がそのまま残っている、性的マイノリティへの距離感
今見るとかなり時代を感じる。
劇中では「ゲイ」という言葉だけでなく、「ホモ」といった現在ならかなり慎重に扱われる言葉も普通に出てくる。ゲイであることを昔の同僚に知られ、「気持ち悪い」と露骨にからかわれる場面まである。
もちろん今も偏見や差別が消えたわけではないが、ここまであからさまに性的指向そのものを嘲笑する空気を見ると、2005年当時と現在との距離はかなり大きい。
しかしそれはそうと、自分が本作を見ていて引っかかったのは「映画そのもののゲイの描き方」。
ナスを男性器に見立ててサイズをからかったり、バイブの話をしたり、とにかく下ネタが多い。
別に「性的マイノリティを美しく聖人のように描け」ということではないし別に性欲の強い人がいてもいいんだけど、同性愛や家族、老いについて考えようとしているところに、こういう下ネタが何度も入ってくると、かなりノイズなんだよね。
むしろ「ゲイ=性的で下品」という見え方を強めていないか?
春彦とのベッドシーンに見えた二人の孤独
本作の柴咲コウは絶妙に可愛く見えない。
柴咲コウという女優が本来持っているキラキラした美しさや色気を、髪型、メイク、衣装、表情、撮り方まで含めて、かなり意識的に消しているように見える。
父がゲイとして家庭を捨てたことへの恨み、荒んだ生活、自分に対する自信のなさ。そういうものを外見にも落とし込んでいるのだとすれば、この見せ方はかなり納得できる。
そして印象的だったのが、オダギリジョー演じる春彦とのベッドシーン。
正直ここもかなり尺が長くて見ていて少ししんどかったんだけど、ゲイである春彦が「自分は女性ともできるのか」と自分自身を試しているように見える。好意があるものの、身体は反応しない。
それまでの春彦はどこか余裕のある人物だったけど沙織をベッドへ誘う時には急にぎこちなくなり、ビクビクした青年のようになる。
ここはオダギリジョーの演技がかなり細かい。
そして沙織から「触りたいところ、ないでしょ」といった言葉を突きつけられる。
つまり春彦は自分が女性には性的に惹かれないという現実を、あらためて目の前に出されることになったのだ。
二人のベッドシーンは濡れ場というより、そうした二人の孤独や、自分自身をどう受け入れるのかを見せる場面だったのだと思う。
しかし犬童一心監督ってやたらと色気のないキスシーンを長々と尺使う傾向にあるよね。観ていてしんどい。
ゲイとして生きることと、残された家族
この映画には、実は二つの大きなテーマがあるように感じた。
一つは、性的マイノリティとして生きること。
もう一つは人は誰でも老いていくということだ。
沙織の父・卑弥呼は家族がどう思うかよりも「自分は自分」として生きる道を選び、家庭を捨てた。
残された家族を沙織側から描いている。
沙織にとって父の同性愛は単なる性的指向ではなく、それによって自分と母親が捨てられたという記憶と結びついている。だからゲイという属性そのものに対する偏見や恨みまで持っている。
一方の春彦は今は若い。でも彼もいずれ老いていく。
卑弥呼やメゾン・ド・ヒミコの住人たちは、性的マイノリティであると同時に、老いや病気や死と向き合う高齢者でもある。
「自分らしく自由に生きること」と、「その結果、周囲に残された人間はどう感じるのか」。
さらに、「どんな人間でも最後には老いる」という問題まで重なっている。
沙織がメゾン・ド・ヒミコへ戻ってくるラストでなんとなくメッセージ性が見えました。
父がゲイだったから、沙織はゲイという存在そのものを嫌っていたが、実際に一人ひとりと関わってみれば、そこにいるのは「ゲイの老人」ではなく、それぞれ性格も悩みも人生も違う一人の人間だった。
だから最後には、属性を越えて心を通わせることができる。
そこがこの映画の着地点なのだろう。
正直言ってテンポの悪さ、長すぎるクラブシーン、下ネタの多さなど、素直に賞賛できない部分はあれど、2005年の日本で性的マイノリティがどう見られていたのか、その空気までかなり生々しく残っている一つの資料としては面白い映画だった。




