2016年に公開された映画『ノクターナル・アニマルズ』。
本作はファッションデザイナーのトム・フォードが監督・脚本を務め、オースティン・ライトの小説『ミステリ原稿』を映画化し、第73回ヴェネツィア国際映画祭では審査員大賞を受賞。
何気なく見始めたら止まらなくなりました、珍しく既視感のを感じさせない攻めた作品だと思います。
本記事ではネタバレ全開で感想考察していきます。
基本情報
作品名:ノクターナル・アニマルズ
原題:Nocturnal Animals
公開年:2016年
製作国:アメリカ
上映時間:116分
監督:トム・フォード
脚本:トム・フォード
原作:オースティン・ライト『ミステリ原稿』
出演:エイミー・アダムス、ジェイク・ジレンホール、マイケル・シャノン、アーロン・テイラー=ジョンソン、アイラ・フィッシャー、アーミー・ハマー、ローラ・リニー
ジャンル:ドラマ/スリラー
あらすじ

アートギャラリーを経営するスーザンは、裕福な夫ハットンと暮らしているものの、夫婦関係は冷え切り、満たされない日々を送っていた。そんな彼女のもとへ、長らく連絡を取っていなかった元夫エドワードから、自作小説『ノクターナル・アニマルズ』の原稿が届く。
小説では、トニーという男が妻と娘を連れて夜のハイウェイを走行中、レイら男たちに執拗に絡まれ、妻と娘を連れ去られてしまう。やがて二人は遺体で発見され、トニーは刑事ボビーとともに犯人を追うことになる。
スーザンは小説を読み進めるうちに、エドワードとの過去を思い返していく。かつて彼の才能や繊細さを受け入れきれず、別の男性に惹かれて彼のもとを去った自分。小説の中の喪失と復讐は、次第にスーザン自身の後悔と重なっていく。やがて彼女はエドワードとの再会を望み、二人は食事の約束を交わす。
結局どういうこと? 小説そのものが元夫エドワードの復讐だった
本作を非常に簡単に説明してしまうと、元夫エドワードがスーザンに小説を送りつけることで、過去の裏切りを後悔させる復讐の物語。
現在のスーザン、エドワードと結婚していた過去、そしてエドワードが書いた小説『ノクターナル・アニマルズ』の世界。この3つの物語が交互に描かれていく。
小説の主人公トニーとエドワードを同じジェイク・ギレンホールが演じているため、最初は「小説の主人公=エドワードなのか?」と混乱するが、同一人物というわけではなく小説そのものが現実の二人の関係を別の物語へ置き換えたように見えてくる。
ただ自分はトニーにはエドワードだけではなく、むしろスーザン自身も投影されているように感じた。
トニーは妻と娘を奪われながら何もできず相手の言いなりになり、結果的に妻と娘は殺害されてしまう。
一方のスーザンも、母親のようにはなりたくないと思いながら、結局は母親が望んだような人生へ進んでしまう。自分自身の夢から離れ芸術を生み出す側ではなく、アートギャラリーのオーナーという立場に収まっている。
つまり二人とも、自分の人生なのに自分で決めきれなかった人間として重なって見える。
そしてエドワードは、そんなスーザンに自分の小説を読ませる。過去を思い出させ、自分が捨てた男の才能を認識させ、最後には再会への期待まで抱かせる。
ところが約束したレストランには来ない。
てっきり小説を送ってきたのだからエドワードも復縁したいのかと思っていたが全く逆だった。小説を送りつけるところから、レストランに現れないところまで含めて復讐だったわけだ。
「君が捨てたものは、それだけ大きかった」「そして君はこれからも一人だ」
そんなことを言葉ではなく、最後のすっぽかしで突きつける。かなり回りくどいけれど、静かで嫌らしい復讐だった。
冒頭の太った女性たちが意味するもの
オープニングにの太った裸の女性たちが踊ってるシーンに関しても「一体何みせられてんだろ?」と思うほど強烈。
つかみとしては最高だったが何を表してるのだろう?
監督のトム・フォードによると、当初は「現代アメリカの象徴(過食、満腹、老い、倦怠感)」として描く意図があったとされているが、実際に撮影や出演者との交流を経て、監督は「社会が押し付ける美の基準や他人の目から解放され、自分自身のままで生きている(=何にも縛られていない自由な)女性たち」の賛歌であると語っている。
富や名声、物質的な成功を手に入れながらも、自分の選択(愛を捨てて安定を選んだこと)に囚われ、心の虚しさを抱えて生きている主人公スーザン。
つまり他人の目を気にして生きるスーザンの「不自由さや精神的な息苦しさ」と、他人の基準を完全に無視してありのまま存在している女性たちの「自由さ」が、対比として描かれている。
元旦那に会おうと身なりを整える最後のシーンにも人の目を気にするスーザンの姿があった。彼女はこれからも何も変わらないのかもしれないし、それをエドワードも知っているのかもしれない。
小説パートが面白い
現実世界だけで話を進めるのではなく、エドワードが書いた小説を、もう一本の映画と呼べるくらいの力で映像化しているところが気に入った。
小説パートでは、トニーが妻と娘を連れて夜道を走っていると、見知らぬ男たちから執拗に絡まれる。
「小説のなかの話」とわかっていてもこのくだりがとにかく不愉快でおまけに尺も長いから、観ているだけでストレスがたまる。
やがて妻と娘を殺され、犯人たちへの憎しみが生まれる。どうやって決着をつけるんだろうと先が気になった。
ここが本作の強さだったと思う。
単に「これはスーザンとエドワードの関係を表現した比喩ですよ」と見せるだけではなく、小説パート単体でも一本のスリラーとして引っ張る力がある。
だから観客は小説の意味を考える以前に、まず物語そのものに巻き込まれる。
そこへ現在のスーザンと、エドワードとの過去が差し込まれてくる。
現在、小説、過去。
まったく異なる3つのストーリーを行き来しているのに、どれか一つが完全に邪魔になるわけでもない。このバランスが非常に良かった。
もちろん、冷静に考えればエドワードの復讐は相当回りくどい。現実にこんなことをする人間がいたらかなり粘着質だ。
ただこれって映画だからこそ成立する復讐であり、映像表現なんですよね。
スーザンは物質的には何不自由ない生活を手に入れた。それでも現在の夫との関係は冷え切り、かつて自分を愛してくれたエドワードも自ら捨てた。そして、そのエドワードから最後に突きつけられるのが「僕はもう君のところには戻らない」という現実だった。
単純な復讐劇でもなければ、単純なミステリーでもない。現実と過去、そして架空の小説を同じ熱量で走らせ、最後には全部を一人の女性の後悔へ収束させる。
かなり変わった作品だったけれど、僕はこの構成そのものを楽しめた。





