2026年7月8日からNetflixで配信されたフランス製作の映画『失うものさえなく』。
フランスでコメディアンや俳優として活躍するナウェル・マダーニが脚本・主演を務め、リュドビク・コルボー=ジュスタンと共同で監督を担当した作品。
すげぇストレスの溜まる作品だったけど、実際問題、あなたがこの映画の中に入ったとしたら?
本記事ではネタバレ全開で感想考察していきます。
基本情報
作品名:失うものさえなく
原題:Jusqu’au bout
公開年:2026年7月8日(Netflix配信)
製作国:フランス
上映時間:102分
監督:ナウェル・マダーニ、リュドビク・コルボー=ジュスタン
脚本:ナウェル・マダーニ
原作:なし(オリジナル脚本)
出演:ナウェル・マダーニ、ギョーム・グイ、ポール・フーレ、ニコラ・ブリアンソン、スティーヴ・ティアンチュー、アイサトゥ・ジャロ・サニャ、サラ・スターン、ローラ・スメット
ジャンル:ヒューマンドラマ/サスペンス
あらすじ

母親になることを強く望み、不妊治療の末に子供を授かったジャダ(ナウェル・マダーニ)。さまざまな困難を乗り越えて手に入れた息子との生活は、彼女にとって何よりも大切なものだった。
しかし、幼い息子が白血病を患ったことで、その幸せな日常は一変する。
病状は次第に悪化し、息子の命を救うためには適合するドナーを見つけ、移植を受ける必要があった。ジャダは必死にドナーを探すものの、思うように事態は進まない。
時間が刻一刻と過ぎていくなか、医療制度の壁や厳しい現実に直面するジャダ。それでも息子の命を諦めることができず、あらゆる手段を使って救おうとする。
しかし、その強い愛情は次第に彼女を追い詰め、息子を救うためなら何をしても許されるのかという、重大な問題に直面していく。
「共感」について
本作は、主演・脚本・共同監督のナウェル・マダーニ自身の経験から着想を得ており、実際に彼女は17年間にわたって不妊に悩み、体外受精などの治療を経て、2021年に42歳で娘を出産している。
ただし映画の中心となる「息子が白血病になり、母親がドナーを探して奔走する」という展開は創作で、本人の子供が白血病になったという実話ではない。
この映画を観てまず考えさせられたのは、人間が他人に感情移入するという行為について。
例えば私は幸いなことに、二人の子供を授かるまでにほとんど苦労をしていない。
だから長年にわたって不妊治療を続けてきた夫婦の気持ちは、正直なところあまりわからない。
どれほど子供が欲しかったのか。なかなか授からないことがどれほど精神的な負担になっていたのか想像することはできても、その苦しみを経験していない私には本当の意味で理解することはできない。これが本音だし、簡単に「わかる」なんて言えない。
今回の映画では10歳の息子が白血病を患ってしまう。
ここに関しては自分の子供たちと重ね合わせてしまった。
私にも年齢の近い娘と息子がいる。もしも自分の子供が同じ病気になったら、果たして冷静でいられるだろうか。
劇中では白血病を患った息子がトイレで何度も嘔吐し、「こんなの嫌だ」と苦しむシーンがある。
もし自分の子供が同じように苦しんでいたら、代わってあげられるものなら自分が代わってあげたいと思うだろう。
だからこそ前半は非常に感情移入ができた。
ここで改めて感じたのは、映画に対する共感の度合いは、観客自身の人生経験によって大きく変わるということ。
結婚していない人や子供がいない人がこの映画を観ても、もちろん何かを感じることはあるだろうが、登場人物との心理的な距離が違うと思う。
自分が経験したことのある状況には強く感情移入できる一方、経験したことのない苦しみに対しては、どうしても距離が生まれるのは仕方がないことだ。
結局、人間というのはそう簡単に分かり合えるものではないのだろう。
よく「お前の気持ちわかるよ」なんて言う人いるけど、いや、わかんねぇだろ。
同じ状況に置かれていない人間に、相手の本当の苦しみなんてわかるわけがない。
人の気持ちなんて90%わかんない。その状況にならないとね。
息子のためなら何をしてもいいのか?
最初はめちゃめちゃ応援したい夫婦の話だったのに、物語が進むにつれて、母親の行動がどんどんおかしくなっていく。次第に彼女を応援する気持ちが失われていった。
なんなんですか、この母親。
白血病を患った息子に適合するドナーが見つからない。ドナーのリストも思うように更新されない。
医師たちの会議に突然押しかけ、ドナーのリストを更新しろと要求する。
医者だって必死に患者の命を救おうとしているのに、自分の息子を助けたいという理由で、他人の仕事を妨害していいのだろうか。
完全にモンスターペアレントである。
自分の息子さえ助かれば、ほかの人間の仕事や立場なんてどうなってもいいのか?
ついにはドナーの個人情報を手に入れるため、無断で建物に侵入するあたりは流石に犯罪だからね。犯罪。
不思議なことに観客としての感情が逆転してしまい、途中から母親に対して「こいつ、早く捕まってほしい」と思うようになってしまった。
おそらく本作は、子供の命を救うためなら、親はどこまでやっていいのか?という問題を描きたいのだろう。
しかし社会にはルールというものがあってどれほど切実な事情があっても、それを無視して何でもやっていいわけではない。
ついには警察官の拳銃を奪い、病院に立てこもるという始末。
仮に息子が助かったとしても、後になって母親が自分のために犯罪を重ねていたことを知ったら、息子は本当に喜ぶのだろうか?
物語としてどうにも応援できなくなってしまい、観ていて本当にストレスが溜まった。
法律と親の感情は一致しない。100対0で責められない母親の行動
結果的に母親たちの行動は犯罪にまで発展し、両親は逮捕されることになる。
しかし、息子は助かった。
ここが非常に難しい。
正直、最後まで母親を応援したいとは思わなかった。
しかし自分がこの母親とまったく同じ状況になったとき、本当に彼女を100対0で責めることができるのだろうか?
ここで思い出したのが、東野圭吾原作の『さまよう刃』。
自分の娘が凌辱され、殺害されてしまった父親の復讐を描いた作品だ。
もちろん、法律では娘を殺されたからといって、自分の手で犯人に復讐することは認められていない。
しかし娘を殺された父親の感情が、そんな法律だけで簡単に割り切れるものなのだろうか?
自分の娘が殺された。それなのに法律が復讐を許さない。
理屈では理解できても、感情が追いつかないことはある。
今回の映画も、まさにそこではないだろうか。
母親の行動は明らかに度を越しているが、だからといって自分の息子が目の前で死んでいくのを、黙って見ていられるのか。
果たして自分が同じ立場になったらどうするだろう。
ここで先ほどの「人の気持ちは90%わかんない」という話につながってくる。
実際に同じ状況になっていない人間が、安全な場所から「そんなことをしてはいけない」と批判するのは簡単だ。
もちろんそれが法律的に正しいこともわかるが、自分の子供の命が懸かっている状況でも、果たして同じことを言えるのだろうか?
それは実際にその立場にならないとわからない。
法律という社会のルールと、子供を守りたいという親の感情。
その境界線を一度ぶっ壊してしまったとき、人間はどこまで行動してしまうのか?
本作は、そうした問題を描いた作品だったのではないだろうか。






