2024年に公開された映画『本心』。
どこか他人ごとではなくリアルな側面もある本作。
本記事ではネタバレ全開で感想考察していきます。
基本情報
・作品名:本心
・公開年:2024年
・監督:石井裕也
・脚本:石井裕也
・原作:平野啓一郎
・音楽:未公開情報あり
・ジャンル:ヒューマン/ミステリー/SF
・上映時間:122分
・製作国:日本
・主なキャスト:池松壮亮、三吉彩花、水上恒司、仲野太賀、田中泯、綾野剛、妻夫木聡、田中裕子
あらすじ

工場で働く石川朔也は、母・秋子から「大事な話がある」と連絡を受け帰宅を急ぐ。しかし豪雨の中で事故に遭い、意識を失う。目を覚ましたのは1年後。母はすでに“自由死”を選択し、この世を去っていた。
社会はAIとVR技術によって大きく変化しており、人は「リアルアバター」として他人の身体を操作し労働する時代になっていた。朔也もまた、その仕事に従事しながら生活を立て直していく。
ある日、朔也は仮想空間で人格を再現する技術「VF(バーチャル・フィギュア)」の存在を知る。母の“本心”を知りたい彼は、開発者に依頼し、母の人格をAIとして再構築するが…
AIで再現された「母」は本物なのか、それともただの偽物か
物語は、母の「大事な話がある」という言葉を残しての死から動き出す。そして主人公は、その言葉の続きを知るためにAIで母を再現する。
母親も匂わせるだけ匂わせておいて死ぬなよ。息子、気になるだろ。と言ってしまっては元も子もなくなるのでここらへんで。
AIについての設定自体は現代的であり、非常に興味深い。AI、VR、個人データの統合によって人格を再構築するという発想は、もはやSFではなく現実に近づきつつある。
だが観ていてどうしても拭えないのが「それ、結局偽物じゃねぇか」という感覚。
ジブリ風に描くフォトアプリが一時期流行りましたね。
でもほんとに一瞬。全然そのあと続かなかった。
なぜなら所詮は偽物だと我々は知っているから。いくらそれっぽくジブリ風に描いたとしてもそれは宮崎駿が生み出したものじゃないのを知ってるから。
「魂」が入ってないのを知ってるからだ。
この映画もどれだけ精巧に再現されようと、それは本人ではない。記憶や言葉、表情が再構築されていたとしても、それはあくまでデータの集合体に過ぎない。だからそこに魂はない。
結局、この母親の大事な話とは、「愛してる」という言葉。めちゃめちゃずっこけそうになりましたよ。
あまりにそのままじゃねぇか。もっと重大な秘密が隠されてるのかと思ったら・・・
拍子抜けするほどに単純で、逆にリアルとも言えるが、それをAIを通して聞かされることに意味があるのかという疑問が残る。
ここで重要なのは、主人公が求めていたのは言葉そのものではなく、母という存在だったという点だろう。
AIの母は話すし、笑うし、反応もする。しかしそれは機械のように切り替わる存在であり、どこかで人間ではないことが透けて見える。
この感覚は、現代のAIそのものだ。便利で、リアルで、だが決して本物ではない。
『怪物』でもまるで目が死んだロボットのような校長先生を演じた田中裕子も存在感ありましたね。
自由死、安楽死について
主人公・朔也は明確に「自由死」については否定派のようだ。母の死を受け入れられず、その理由を追い求め、AIで再現するという行動に出る。
だが自分はそこに違和感を覚えた。映画のなかの「自由死」を「安楽死」と解釈するとすれば、私は安楽死は認められるべきだと考えているからだ。
自由死という選択は、決して単純な善悪で語れるものではない。
日本では安楽死は法的に認められていないが、海外ではすでに制度として存在している。オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、スイス、カナダ、アメリカの一部州では合法であり、例えばオランダでは死因の約4%が安楽死にあたるという。
つまりこれは異常な選択ではなく一定の社会的合意の中で成立している現実でもある。
ではなぜ日本では認められていないのか?倫理、宗教観、医療制度、様々な要因があるだろう。しかしもっとシンプルに考えれば「死を自分で選ぶこと」を社会がどこまで許容できるかという問題に尽きる。
そろそろ親の介護問題が出てくる先輩方をみていると非常に大変な思いをされているのを聞く。
近い将来、必ず訪れる自分の親の介護問題。
そして、自分もまた介護される未来。
介護施設は高額であり、狭き門である現実。
自分がもし重い病気で苦しみ続けるとしたら。家族にその姿を見せ続けること、治療費や介護の負担を背負わせること。
それを考えたとき、「自分で終わりを決める」という選択は、むしろ一つの誠実さではないかとも思える。
実際に、日本からスイス(唯一外国人が安楽死を許可されてる国)へ渡り安楽死を選ぶ人の話も耳にする。
だからこそ、本作の主人公が「自由死=間違い」という方向に寄っているように見える点には、もっと揺らぎがあっていいテーマのはずなのに、どこか片側に寄せてしまっている。
バーチャルな関係性と「触れられない恋」の正体
さらに本作が面白いのは、AIの母だけでなく、三吉彩花演じる女性キャラクターとの関係にも同じ構造を持ち込んでいる点。
だって彼女は学生時代好きだったその子じゃないんだもん。似てるだけ。
しかもなぞに触れられたくないという設定で実体があるのかどうかすら曖昧な存在。
もしやこの子もAI?と思ったけど、生身の人間でしたね。最後のあの手は三吉彩花の手のように見えました。だって母の手ならずいぶんしわってないから。
相手が実在しているかどうかよりも、「恋している」という感覚そのものに依存している構造はまさにアバターやバーチャル空間における人間関係のメタファーである。
現代では、SNSやVR、AIを通じて、実体のない関係性がいくらでも成立する。しかしそれは本当に関係と呼べるのかね。
あとは温暖化で気温がやたら上昇してたり、機械に仕事を奪われる人間、そもそも依頼主がAIだったりそれに振り回される人間など、実はだいぶリアルな側面もある本作。
一つだけ確かなのは、人は「触れられるもの」にしか最終的な実感を持てないということ。どれだけデジタルが進化しても、その距離は埋まらない。
だからこそ本作は、AIや自由死というテーマを扱いながら、最終的には極めて原始的な問いに戻ってくる。
人は何をもって「本物」とするのかだ。





