1988年に公開された映画『ドラえもん のび太のパラレル西遊記』。
本作は珍しく藤子・F・不二雄氏は胃癌手術とその後の体調不良により原作漫画は描いてない唯一の作品。
「パラレル西遊記」というのはアイディアはもともと藤子・F・不二雄氏が出したものみたいだ。
さて、本作は小さい頃に観てちょいとトラウマ的なシーンがある作品。
本記事ではネタバレ全開で感想考察レビューしていきます。
基本情報
- 作品名:ドラえもん のび太のパラレル西遊記
- 公開年:1988年
- 監督:芝山努
- 脚本:もとひら了
- 音楽:菊池俊輔
- ジャンル:アニメ/冒険/ファンタジー
- 上映時間:93分
- 製作国:日本
- 主なキャスト:大山のぶ代、小原乃梨子、野村道子、たてかべ和也、肝付兼太 ほか
あらすじ

のび太たちは学校の劇で「西遊記」をやることになり、役作りや想像を膨らませていく。ところが、その「想像」はただのごっこで終わらず、現実世界そのものを巻き込む“別の歴史”へと連結してしまう。ドラえもん一行は、歪んだ世界を元に戻すため、物語の舞台へ踏み込み、妖怪たちが支配する異常な現実に立ち向かう。
西遊記はいるか
本作、何が凄いかってのび太の「孫悟空は絶対にいる」という夢を正面からバキッと折らないのが偉い。ちゃんと夢を膨らませて膨らませたまま、「孫悟空はのび太だった」説に上手くずらしたのが巧みで優しさの作法が上手いなと感じました。
一方、ジャイアンの「俺は孫悟空になりてぇよぉ」という心の叫びも刺さる。
なりたい。なりたかった。でもなれない現実。
理想と現実のギャップって、子どもが一番最初にぶつかる壁でしょ。
彼は最終的に自分は豚とは思ってないが猪八戒としての役割を演じて立ち回ることになる。うーん、リアルだ。でもそれが現実なんだ。
ドラえもんの2回の過失
さて、本作はのび太の「本物の西遊記がいたら演劇の西遊記をやらせてほしい。もしいなければドラえもんの道具使い放題」という大変自分勝手な賭けに負けてドラえもんが一方的に巻き込まれたことが全ての原因だ。
そのあとドラえもんはのび太をフォローするためにゲームの西遊記を出しっぱなしにしてしまう初歩的なミスから妖怪たちがゲームから出てしまう事態が発生。
確かにスキが甘いドラえもんの過失ではあるが、のび太の勝手な賭けに巻き込まれたという情状酌量の余地もある。
しかし妖怪が現実世界へ出れてしまうこのゲームも問題点があり、責任の所在の特定はなかなか難しいところである。
のび太はいつも通り、背伸びして、夢見て、調子に乗って、取り返しがつかなくなる。
ドラえもんものび太に付き合って、協力して、道具も出して、結果的に責任まで背負う。
「ドラえもんのせいだ!」と仲間から責められる。
なかなか理不尽じゃないか。ドラえもん、やるせないだろう。
しかもさらに追い打ちをかけるように彼は二回目の過失を犯すことになる。
妖怪が近くにいるのにも関わらず「まだ朝じゃないでしょ」とアラーム消した結果、三蔵法師が連れていかれてしまう。これ、ドラえもん側のミス二回目って感覚、結構珍しくね?
「ちゃんと管理しとけよ!」ってツッコミたくなるんだけど、まぁドラえもんも完璧な保護者じゃないってところで落ち着きましょう。
子どもの願いを叶えようとして、ちょっと油断して、取り返しのつかないことが起きる。これは家庭でも学校でも起きる「事故」の構造に近い。
ツッコミどころも当然ある。
「しずかちゃん攫われてるのに、タケコプターあるなら使えよ」
いままで歩いてたのは何だったんだよ。こういう道具の整合性問題はドラえもん映画の宿命だ。
母親の階段、パラレルワールド。
本作、小さい時に観て非常に怖ったのが母親が階段を登ってくるシーン。
謎にホラーテイストで怖かったな。
ドラえもんって基本、家庭の安心感が背景にある作品なのに、その家が最も怖い入口になる恐怖シーンだった。親って子供からすると絶対的な存在なのにそれがゆらぐ恐怖が本作にはありましたね。
このシーンがあるからラストの再び母親が階段から登ってくるシーンが活きるわけだ。
そして「この時代にパラレルワールド概念ってあったかな」と思ったら『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の存在が大きかったのかな。
時間や歴史がズレる怖さ、現実が書き換わる不安、それを子ども向けに翻訳したのがこの一本であり、子供映画にしてはなかなかの完成度ではないだろうか。
リンレイは妖怪同士の子供なのに超人間の見た目してるけど、連れ子じゃないよね?と余計なことがよぎってしまった。




